2018年05月25日

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター7号

 若葉が初夏の日ざしにまぶしく輝く季節となりました。日中は汗ばむくらいの陽気が続く今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第7号では、2月21日(水)に開催された国立歴史民俗博物館主催・韓国国立ハングル博物館共催・JSPS科研費(15K02813)「東アジア諸王室における「后位」比較史研究に関する国際的研究基盤の形成」協力による国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」参加記を掲載いたします。
 集会は、パク ヨングク(朴榮國)国立ハングル博物館館長による国立ハングル博物館の設置目的と特徴、展示の紹介をいただいた後、久留島浩館長による歴博の紹介と、館内の文字に関わる展示見学に続き、3本の報告とコメント、総合討論が行われ、本共同研究にとっても、大変有意義な研究集会となりました。

本記事と同内容のPDF版はこちら→日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター7号



国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」
동아시아 문자문화와 젠더
Culture of Writing and Gender Studies in East Asia
2018年2月21日(水)(於国立歴史民俗博物館)

◆スケジュール
10:30-10:45 開会・開催趣旨説明
10:45-11:45 館長挨拶・博物館活動紹介
       国立歴史民俗博物館/韓国国立ハングル博物館
11:45-13:00 休 憩
13:00-14:00 ユ ホソン(Riw, Ho sun)韓国国立ハングル博物館
       「朝鮮時代女性読者のためのハングル資料」
14:00-15:00 イ ヒョンジュ(Lee, Hyunju)韓国成均館大学校
       「韓国古代金石文と女性
         −『蔚州川前里書石』から見た新羅の王室女性−」

15:10-15:15 休 憩
15:15-16:00 三上 喜孝(MIKAMI Yoshitaka)国立歴史民俗博物館
       「古代日本の文字文化とジェンダー」
16:00-16:40 コメント 伴瀬 明美(BANSE Akemi)東京大学史料編纂所
       総合討論
16:40-16:45 閉会挨拶
司会:仁藤敦史(国立歴史民俗博物館)

 国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」では、本共同研究のメンバーである義江明子氏、小島道裕氏から参加記をいただきました。


国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」参加記 
義江明子(元帝京大学)

 2018年2月21日に国立歴史民俗博物館大会議室で、国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」が開催された。午前中にはハングル博物館のパク ヨングル館長による、映像を上映しての博物館紹介があった。ハングル博物館は2014年に設立された韓国最新の博物館で、2017年の来館者は60万人にのぼるという。ハングル文化の普及に向けた同博物館の役割には目をみはるものがあり、「ハングルの社会的経済的価値」への注目が印象深かった。午後のシンポジウムでは、ユ ホソン氏による朝鮮時代のハングル使用をめぐる報告、イ ヒョンジュ氏による古代新羅の漢字による称号表記をめぐる報告、三上喜孝氏による東アジアの画指使用をめぐる報告、の三報告があり、伴瀬明美氏によるコメントがなされた。逐次通訳を交え限られた時間内ではあったが、フロアとの質疑もあり、刺激に満ちた濃密な時間を過ごすことができた。以下、シンポジウムの感想を、自分の問題関心にひきつけつつ述べてみたい。
報告・コメント・質疑の全体を通じて、東アジアの文字とジェンダーをめぐり、二つの面からの論点が浮上したと感じた。一つは、漢字の使用/不使用にみるジェンダー、もう一つは、漢字の受容を通じてなされたジェンダー編成の問題である。

漢字の使用/不使用にみるジェンダー
 第一の論点は、ユ報告と三上報告でおもに取り上げられた。両報告からは、漢字文化の周辺地域において、漢字に代わる/補足する機能を持つ、ハングル/画指が、「文字(=漢字)文化から排除されてきた人達」のために、うまれ/考案され/使われたことが明かになった。対象は男女である。
ユ報告によれば、ハングル文字は「漢字の読めない男女」のために考案された。世宗によるハングル創成は15世紀半ばのことで、以後、さまざまな普及政策がとられたが、広く庶民一般にハングルが使われ始めるのは、19世紀末の高宗代になってからだという。これは庶民への教育普及に関わることなのだろう。日本でも近世後期19世紀以降に、庶民の教育機関でとしての寺子屋の数が著しく増加し、男女の子どもが「いろは」文字の手習いをした。
 庶民に普及する以前のハングルは、おもに王室・支配層女性によって使われ、また彼女たちを読み手として(男性によって)書かれたのだという。ユ報告では、@15世紀半ばに王室の仏事に関わって作成された、男性用の漢文版と女性用のハングル版(漢文口語訳のハングル表記)の二通りの「御牒」、A19世紀前半の、女官が漢文「冊文」を朗読練習するためのハングル本(漢字音そのままのハングル表記)、B19世紀後半に女官・舞女が使った、宮中の宴会での舞踊「呈才」における唱詞練習のためのハングル本、C朝鮮後期の男性知識人が、夫人と嫁に送ったハングル手紙、の四例が紹介された。私が特に興味を覚えたのは、@Aの事例である。
王室女性(太妃・王妃・世子嬪など)や女官が、宮廷の儀礼・仏事の場で自らの役割を果たす上で、漢文文書を理解/朗誦する必要から、漢文を口語訳/音読したハングル表記版が作られた。伴瀬氏のコメントでも注目されたように、ここには「宮廷儀礼におけるジェンダー化」の問題がある。それが、文字使用におけるジェンダー化の前提としてあるらしい。「文字(=漢字)文化から排除されてきた人達」のためにハングルは作られたが、「排除されてきた人達」とは、具体的には「下層男女+支配層女性」ということになる。支配層男性は漢字とハングルを併用し、役目として宮廷女性のためのハングル版を作成し、あるいは身近な女性のためにハングル手紙を書いた。宮廷女性は必ずしも漢字が読めなかったわけではあるまい。規範≠ニして「排除」されていたのである(日本の平安文学を代表する『源氏物語』の作者紫式部が、「一という漢字」すら書けないふりをしていた、と日記に記すように)。
 三上報告では「画指」を取り上げ、東アジアにおける漢字文化の広まりと同様に、日本だけではなくベトナム・西夏・朝鮮でも、漢字署名にかわる本人確認手段として普及していたことを明かにした。男は左寸、女は右寸という(中国に発する左を上位とする)規範が共通してみられ、朝鮮では、売買に関わらない士大夫の代わりに、奴婢が手掌・手寸を行った。日本の8世紀の実例では、指の方向と文字の方向が逆、つまり、文書管理者(官人)は口頭で文書を読み上げ、その向きのままで「画指」をさせたのだという。それが9世紀半ばの土地売券では文字の向きと指の向きが同一方向になる。つまり、前者では文字を解さないという前提、後者では文字を解するという前提の上で、「画指」させたことになる。
「画指」の使用は、実際に文字を解したか否かとは別に、文書様式・作法の問題であること、身体性と深く関わる本人特定手段であることを、三上氏は強調された。報告では直接に仮名の問題は取り上げられなかったが、「画指」をめぐる考察の延長上で、男=漢字/漢文=公、女=仮名/和文=私≠ニいう男女による文字・文体の使い分けがあったとすれば、それは、情報伝達の様式や規範に強い制約を受けつつ形成された可能性がある、とされたのである。
三上氏も報告の最後でふれられたように、近年、9世紀後半〜10世紀初の「草仮名」「平仮名」資料(墨書土器など)が平安京の貴族邸宅跡から出土し、注目されている。この時期は「平仮名」の成立期にあたる。皇太后(天皇の母)を弟である高位貴族が自邸に迎えた宴会の席で、貴族男女によって「仮名」を使った文筆の世界が繰り広げられたらしい。「宮廷儀礼における男女の機能分担」の具体的解明が待たれる。

漢字の受容とジェンダー編成
 第二の論点は、イ ヒョンジュ報告の主要テーマである。イ氏は、6世紀前半の新羅の金石文をとりあげ、そこに見える「太王妃」「妃」「夫人」「女郎王」「妹王」といった王の母・妻・娘・妹を指す(と思われる)女性称号を考察して、王権強化の過程と並行して王室女性の序列化がなされていったことを明かにした。当時の新羅は、高句麗から自立して王権の強化期にあった。その過程で、ヒョッコセやマリツカンといった固有王号から漢字表記の「王」へ、複数の「王」から唯一の「大王」へ、という変化があった。それと同様に王室女性についても、固有称号から「妃」「夫人」等の漢字表記を用いた称号への移行があり、王室女性内部の序列化がなされたという。
 伴瀬氏がコメントで指摘されたように、これは「王室女性の関係性をどう文字表記するか」という問題である。漢字の「王」「妃」「夫人」には、中国での固有の用法があるが、新羅はそれを独自の理解で固有称号と結びつけつつ、6世紀前半に王族の序列化を実現していった。日本でも、7世紀後半に同じく漢字の「王」「妃」「夫人」を受容しつつ、王族の序列化が図られた。しかしそれは、新羅とは異なる固有称号と、異なる結びつき方で、異なる序列化がなされたのである。これは極めて興味深い比較の素材といえよう。
日本では、6〜7世紀の「王」号は男女の王族に共通で用いられ、かなり広い範囲の王族全てが「○○王」と称された。「王」の訓みは固有語では「ミコ」(御子)であり、身分の高い人を意味する普通名詞である。当時の系譜の定型的書き方では、子どもは男女を区別しない出生順で記された。親族構造としては、王族内での男女序列の乏しかったことが推定できる。「大王」号は5世紀後半の金石文に見えるが、必ずしも、唯一最高の王をさす君主号ではない。一般の王族に対しても、特別の尊称として使われた。
王族内部の序列化がすすむのは、国家体制確立期の7世紀後半である。唯一の君主号としての「天皇」号の成立と並行して、天皇の子どもは「皇子」/「皇女」、それ以外の王族は「王」/「女王」とする制度的区別が成立した。固有語の訓みとしては、「皇子」「王」はミコ=A「皇女」「女王」はヒメミコ≠ナある。つまり、上下・男女の区別のなかった固有語ミコ≠ノ、新たに漢字の「皇」字で区別し王族序列化を実現するとともに、女には漢字の「女」、固有訓みでヒメ=i高貴な女性への尊称)を付加することで、男女の称号区別がなされたのである。同時に、男女で異なる出仕方法・待遇も制度化された。まさに、王族のジェンダー編成である。
 貴族豪族女性についてみると、固有語での一般的尊称は「トジ」(刀自)「オオトジ」(大刀自)である。8世紀初に律令で「皇后・妃・夫人・嬪」というキサキの序列が制定された時、貴族豪族出身のキサキは、第三序列の「夫人」とされた。訓みは「オオトジ」である。現在でも、「刀自」は地方旧家の妻に対する古風な尊称として使われ、「夫人」は上流名家の妻を指すもっとも一般的な尊称である。一方、イ報告によれば、「夫人」「大夫人」は王妃に対する尊称として、5〜6世紀前半の新羅の金石文にみえ、「王妃」称号の成立とともに、貴族女性も「○○の妻△△夫人」として序列化されていくという。漢字の「夫人」表記がどのようにして固有語の女性尊称と結びつき、上層女性の序列化を実現していくのか。日韓の共通性と相違は、興味深い考察課題である。

新羅の王族序列化過程における「女郎王」「妹王」
 フロアとの質疑では、「女郎王」「妹王」を新羅の王族序列化過程にどう位置づけるかで、議論が交わされた。質問者(伊集院葉子氏)は、6世紀初の碑文には7人の「王」がみえ、そこから1人の王が「王」号を独占していく過渡期にあって、「女郎王」「妹王」という「王」と呼ばれる女性がいたことに注目した。そして、(男弟の「葛文王」のように)女性の「王」も何らかの役割を果たしていたのではないか、と問うたのである。それに対してイ氏は、「女郎王」は王の娘、「妹王」は王の妹であり、いわば娘・妹という一般名称に尊称の意味で「王」を付したもの、との理解を示した。そして彼女たちが担ったのは、古来より王室女性が果たしてきた宗教的役割と思う、と答えられた。質問者は「女郎王」「妹王」の「王」に着目し、イ氏は「女郎」「妹」という親族名称を重視する、ということであろうか。
 日本の学界でも、かつては女帝「巫女」説が有力学説の一つだった。しかし史料批判がすすみ、女性の聖性を強調する本質主義への批判もあって、近年ではあまり強調されなくなった。それよりはむしろ、当時の親族構造・王権構造の中に男女の王を位置づける方向に、研究はシフトしてきている。「女郎王」「妹王」についても、そうした観点からの検討がすすめば、宗教的役割に限定されない側面が見えてくる可能性もあろう。また、「女郎」「妹」も、たんなる親族名称ではないかもしれない。日本の古代史料にみえる「女郎」「郎女」との比較検討も必要だろう。
 このように、漢字文化の広がった地域における、漢字の使用/不使用をめぐるジェンダー、漢字受容を通じて実現したジェンダー編成のありようをみてきて、あらためて浮かぶ疑問がある。そもそも漢字を補足/代替する文字を持たなかった中国においては、難解な漢字の使用/不使用をめぐるジェンダーはどのようなものだったのだろうか。また、表意文字である漢字によって男・女が様々にカテゴライズされたことは、どのような影響を社会に及ぼしていったのだろうか。
 ちなみに「女」という文字は、先学の研究成果によると、唐の律令用語では未婚の娘(ムスメ)を指し、独立した社会的身分・法的権利を持たない。それに対して、家父長制家族が未成立で、婚姻が女性の社会的身分変化をもたらさなかった古代日本では、中国律令のこうした「女」概念を受容することができなかった。そのため、日本の律令における「女」には、婚姻の有無にかかわらず独立した社会的身分を有する「オンナ」一般を指す用法がみられる、という。新羅では、「女」という漢字は、どのようなものとして受容され、機能したのだろう。興味は尽きない。
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歴博国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」に参加して
              ―特に「画指」について―

小島 道裕(国立歴史民俗博物館 歴史研究系)

集会の所感
 本集会は、日韓の研究者が文字文化をジェンダーの視点から考察したものであり、私は、国立歴史民俗博物館第2展示室「中世」について、その関連部分を御案内した。
 「かな」の発達、中世における女性の地位の高さを示す板碑や土地売券、「後家尼」の描かれた風俗画、女性たちに宛てた蓮如の仮名交じりの文、庶民の文字としての片仮名、などであり、国際的な視点での考察対象として期待できる要素が多くあることは共有できたかと思う。
 研究発表では、まず柳好宣氏から男性が女性に対して用いたハングルの文書について、次いで李R珠氏から磨崖碑に見られる新羅王族女性の呼称の問題についての報告があり、前者については仮名文字との比較について興味が持たれ、後者については限られた情報から考察を展開する古代史の醍醐味を味わうことができた。
 三上喜孝氏の「画指」についての報告は、アジア各国に見られる庶民の署判方式として重要であるが、報告に触発されて少し課題や仮説も思いついたので、以下それについて述べてみたい。

画指を書く方法について@ 背か腹か
 まず画指を書く方法だが、三上報告で説明に使われた図では、指の背側(爪のある方)が上になっていたが、しかし、こちら側には、実際は指の根元の部分に線が存在しない。「本」の部分まで点を打つには不適当であろう(図1)。関節の線をすべて確認出来るのは指の腹側(「手のひら」側)であり、そちらを上に向けて行なったのではないだろうか(図2)。ベトナムの例で指を横側から描いているのも、この腹側の線を見せるためと思われ、図3も考えられる。
 なお、その後、共同研究「中世文書」の共同研究員であるソウル大学の文叔子氏に伺ったところ、指は背側を上にして、第1関節と第2関節の間の長さを記す、と理解されていた。朝鮮時代のものは、たしかに根元の部分は点を打たずに線を引いているようなのでそうかもしれないが、しかし「本」から「末」までの4点方式の場合は、やはり背側では考えにくいと思う。

画指を書く方法についてA 書くのは誰か
 三上氏は、画指で署名する人間は、文書を読み上げる人間と向き合っているので、文書としては「本」が上になる、と指摘されたことは大変興味深かったが、では画指を書く、ないし点を打ったのはどちらの人間だろうか。署判する人間が自ら点を打つのか、あるいは文書を作成し読み上げた側の人間が打つのか、という問題が生じると思われた。
 これは、署名者が自ら主体的に画指を行なうのか、それとも文書作成者の側に「写し取られる」のか、という違いであり、署判の意味としては重要だと思われる。おそらく、詳細に観察すれば、筆の入り方や傾き方によって、どちらの向きから点を打ったかについて情報を得ることは可能と思われ、その点についてもさらに研究の余地があるように思えた。

画指を書く方法についてB 右か左か
 この「誰が書いたのか」という問題について、もうひとつ考えてみたいのは、画指(および画掌)に用いる手が男女によって区別されており、国や時代を問わず、男は左手、女は右手を用いているらしいことである。なぜ右手と左手を使い分けるのかはよく分かっていないようで、「お雛様」の並べ方と同様の序列の問題、すなわち男が左手なのは左が上位だから、と考える向きが多いようだが、しかし「左遷」という言葉があるように、中国では古くは左を下位、右を上位とする考え方があったはずだから、それでは説明しにくいのではないか。
 そこで思いついた仮説だが、女が右手なのは、別のジェンダーの問題なのかもしれない。
 実際にやってみると分かるが、右利きの場合なら、左手の画指を書く(点を打つ)のは容易だが、右手の画指を自分で書くのは、左手に筆を持たねばならないから、かなり困難である。つまり右手の指を書かねばならない女性は、困難な作業を強いられるか、もしくは別の人間に書いてもらわねばならない、というハンディーを負うことになる。その意味で女性が不利な立場に置かれている、と考えることも可能ではないだろうか。

文書の身体性・呪術性として
 画指という署判の方法は、日本では中世には廃れたが、しかし、拇印、掌判、爪印など、身体の一部を文書に写す方法は存在する。また「筆軸印」などは、形による証拠能力は皆無であるにも関わらず、文書に本人が自ら「しるし」を付けた、というこれも一種の身体性として行なわれるものであり、文書の持つ呪術性の表われとも言えよう。さまざまな署判方法の比較と、物としての文書の研究には、さらに多くの可能性があると思えた。

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画指説明図



posted by 日本列島社会の歴史とジェンダー at 16:16| Comment(0) | ニューズレター

2018年01月30日

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター6号

 あっという間に新年から一ヶ月が経過しようとしております。厳しい寒さが続き、関東でも例年にない積雪に見舞われましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第6号では、昨年開催した第5回研究会と第6回研究会について報告いたします。また、2月21日(水)には国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」が開催されます。是非ご参加ください(案内はこちら

本記事と同内容のPDF版はこちら→日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター6号

第5回研究会 書評『日本古代女帝論』 評者:田中禎昭氏 

2017年10月28日(土)13:00-16:30(於日本女子大学)

13:00-13:40 成瀬記念館見学                    
当研究会メンバーの水野僚子氏(日本女子大学)の案内で、成瀬記念館の見学を行いました。成瀬記念館は、日本女子大学の創立者成瀬仁蔵の教学の理念と学園の歴史を明らかにし、広く女子教育の進展に寄与することを願って設立された博物館相当施設で、学園史を中心にした資料紹介を中心に、学園の文書館、博物館として、様々な活動をおこなっています。見学時は、「日本女子大学の災害支援」という特別展示が行われており、女性による災害支援の取り組みの実態について学ぶことができました。

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13:40-16:30 書評会                               
義江明子『日本古代女帝論』(塙書房、2017)の書評会を行いました。書評会の開催は本研究会においてはじめての取り組みでした。評者として研究会外から田中禎昭氏(専修大学)をお招きし、著書の内容の紹介とともに、忌憚のない意見、疑問点を提示していただきました。著者であり、当研究会メンバーである義江氏(元帝京大学)にも参加していただき、著者・評者・参加者のあいだで有意義な議論が行われました。

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コメント           
共同研究メンバーの村和明氏から、本書評会へのコメントをご寄稿いただきました。以下に掲載いたします。

第5回研究会に参加して
村和明(三井文庫)


 去る2017年10月28日(土)、日本女子大学目白キャンパスで開催された第5回研究会では、田中禎昭氏による義江明子氏の近著『日本古代女帝論』の書評がおこなわれた。学術的に意義ある批判的検討をおこなう能力はないので、おもに感想を記させて頂くことにしたい。10.jpg
 私はいちおう近世の天皇制を勉強していたことがあり、義江氏のお仕事はとても面白く拝読するものの、所詮は素人のことで研究史上の要点や機微に疎いのだが、評者の田中氏の(社交辞令でなく)非常にていねいな要約で、議論のポイントが自分なりにも理解できた(ように思われた)。他方、著者の義江氏からは、評者の懇切なご紹介があり、特に村落の年齢階層の解明がいかにご自身の仕事に役立てられているかを平易に述べられたので、研究史上の評者の姿や両者の位置関係が整理されたところから議論が展開され、門外漢としてはありがたかった。著者・評者が敬意を払い合いつつ、かなり突っ込んだ質疑もあり、さらに研究史上の前提となるお仕事をされた仁藤敦史氏も参加されていたので、議論はかなり立体的な様相を帯びた。その議論を筆録したり深めたりする能力はないので、以下雑駁に、個人的に印象に残った点を挙げたい。
 一つは概念・用語の取り扱い方である。ある概念・用語が、辞書的もしくは学術文献上で明記された狭義の定義・用法に加え、研究史を取り巻く学会の雰囲気なり同時代の社会通念なりがもたらす含意をもち、ある種の色合いを暗黙のうちに帯びる際に、それらをいかに取捨し用いてゆくべきかという点、田中氏の提起や、いくつかの語に即した質疑を通じて考えさせられた。また一つは、先行研究批判の方法である。これは義江氏の著作のハイライトの一つと読め、田中氏も高く評価されていた部分であるが、折口信夫説の問題点を指摘される際に、問題が生じた背景と過程が具体的に解明されることで、批判の趣旨にすさまじい説得力が生じていて、研究対象と研究史の分析にはほんらい原理的な区分はないのだなと感じさせられた。用語やその背景にある研究史における暗黙・無意識の合意の側面、自他の研究者のバイアスと変化、等々に対する認識を強くもち、それらを自覚的に組み立て直して、意識をいきわたらせた叙述をおこなうことの重要性が印象づけられた。
 このほか、王権の変容を規定した複合的な諸条件を叙述する際に、その布置の理論的整理が必要との評者の注文に対し、上から諸条件がある種総動員された印象との著者のリプライがあった点や、軍事力優先の社会編成が上から志向されることが社会に及ぼす影響などの議論も、私の身近な分野にかかわって身に染みた。
懇親会も、毎回のことではあるが、非常に充実したものであった。幸運にも義江氏・田中氏・仁藤氏と顔を突き合わせる席に座らせて頂き、古代史の現況をうかがったり、休憩時間中に場外乱闘的にあった議論への素朴な疑問を解決していただいたり、一度うかがってみたかった幼稚な疑問をぶつけたり、大変贅沢な時間を過ごさせて頂いた。
 以上は走り書きのメモと記憶で記しているので、誤りもあるのではないかと思う。寛恕をお願いする次第である。



第6回研究会 「社会集団とジェンダー」

2017年12月9日、10日 (於国立歴史民俗博物館)

◆9日(土)12:40-17:15
12:40-15:00 書評『中世の〈遊女〉生業と身分』 評者:曽根ひろみ氏

辻浩和『中世の〈遊女〉生業と身分』(京都大学出版会、2017)の書評を行いました。評者には、曽根ひろみ氏(元神戸大学)をお招きし、近世史研究の立場から、幅広い視野でコメントをいただきました。著者であり、本共同研究のメンバーである辻氏が質疑応答の内容について、まとめとコメントをくださいました。以下、掲載いたします。

『中世の〈遊女〉生業と身分』書評会
辻浩和(川村学園女子大学文学部准教授)


 曽根ひろみ氏より、拙稿に対する書評をいただいた後、参加者を交えて質疑応答が行われた。その概要について、簡単に紹介しておきたい。矢印の後が応答内容である。
まず曽根氏から出されたコメント・疑問点に対して、筆者の考えをお話しした。3.jpg
・全体としては網野善彦氏・後藤紀彦氏の批判的継承を目指したもの。
→その通り。網野・後藤説は遊女論を被差別身分論と切り離す上で重要な画期となった。
・他分野の成果を積極的に取り入れているが、そのせいで論理展開がわかりにくい。
→基本的には考え方のレベルで他分野の研究を参照しており、分析自体は歴史学的にやっているつもりだが、説明が長くなってしまった点は否めない。
・後白河・後鳥羽の相違点、その社会的・政治的背景がよくわからなかった。
→当時の政治的文脈では、皇位継承に関して院(治天)の意向を踏まえているかどうかは重要な問題。その点で両者は大きく異なっており、貴族から受ける支持が全く違う。
・ごく限られた史料からかなり大胆に一般論を導き出す手法に違和感がある。
→中世史の中でも拙著はかなり断片的な史料を扱っている。そういう史料を使わないとそもそも議論が出来ないので、実証が粗くなってしまうことは否めない。
・王権は〈遊女〉を組織的に支配しなかったが、寺社が組織的に支配するのはなぜなのか。
→推測だが、寺社による支配の目的は法楽、神様を楽しませるという寺社の本質にかかわる部分にあって、だからこそ〈遊女〉を拝殿組織に取り込む。一方、朝廷儀式においては遊女を組織するメリットが特にないのではないか。
・兵庫の遊女を組織する「上部権力」とは何か。
→恐らく西宮などの寺社だと思うが、史料的にわからないのでそういう表現をとっている。
・近世への展開について「遊女」と「売女」の混同が見られる。「売女」の系譜、例えば「夜発(やほち)」をどう理解するのか。4.jpg
→史料への出現状況をみると、「遊女」と「夜発」は辞書的な史料で、必ず対になって出てくる。個々の事例を見ても、同一実体を指す異称と見るべきだと思う。街娼的な存在が出てくるようになるのは、15世紀末の『廻国雑記』あたりが最初なのではないか。
・近世初頭の遊女にあまり卑賤視は見られない。むしろ世の女の鏡とさえ思われていた節がある。評者が指摘した「むき出しの売春」の主体は、近世後期以降の下層の遊女、あるいは街娼であり、近世初期の遊女とは区別されねばならない。
→街娼的存在が出てくるのが15世紀末なので、「むき出しの売春」は近世とつなげて考えた方がよいのではないかと考えた。ここでは「卑賤視」よりも「特殊視」に力点があり、横田冬彦氏が論じたような近世初期の「特殊視」に繋がるのではないかと考えている。
 次に、フロアから以下のような質問が出された。
小島道裕氏:@『七十一番職人歌合』の立君の絵については、岩崎佳枝氏が指摘しているように男性を「奈良法師」の使と捉えた方がいいと思う。そうすると『東山名所図屏風』で清水坂に描かれる女性のお酌をどう捉えるかが問題になる。通常の遊女屋の定型的表現とも異なるが、どう考えるか。A後家尼のような女性が近世になると急にいなくなってしまう。女性の地位自体が変わっていく中で遊女の地位も変わるのでは。
→@五条坂の遊女については他にも史料があるので、『東山名所図屏風』も遊女ではないかと考えた。お酌をするというのは一般の女性とは考え難いのではないか。A女性一般についてはまだ勉強不足なので今後勉強したい。
横山百合子氏:@遊女の変容はセックスワークの流れの中で位置付けるのではなく、女性一般の地位変化の中で位置付ける方が、時代構造と関連付けられると思う。近世になると女名前が激減し、女性が自立した経営者として存在すること自体がほぼできなくなる。特に近世都市では遊女の営業ができる条件そのものがないのではないか。A客としての男性の階層性、都市社会構造に対応する客層の変化と、遊女の変容がリンクしているのでは。B遊女を都市の事象と見るならば、都市の権力編成のあり方についても目配りが必要なのではないか。C近世だと権力に把握されているのが遊女屋―遊女で、把握されていないのが売女屋―売女。そういうあり方は他の身分とも共通する。
→@中世後期の女性の地位変化については研究が少なく難しい。A中世後期の遊女屋の客は、青侍などが多いと思う。史料的に集めることは可能なので今後考えたい。B中世後期の遊女史料は、基本的に都市的な検断・暴力・騒擾と関わる形で出てくる。そういう意味で都市権力と無縁ではない。C遊女集団の外で女房たちが買売春を行っていることから考えると、組織されていない女性たちがいるはずだが、中世後期だと史料的にほとんどわからない。
著者:近世には女名前の遊女屋が多くあるという話を聞いた。それはどう捉えればよいか。
→横山氏:遊廓の中の女名前はたくさんあるが、自立的な女性経営の場合は男性が背後にいて暴力的にしきる場合が多いので、名前だけでは判断できない。後家の場合や、遣り手が立ち上がって一家経営している場合もあると思う。
長志珠絵:古代史の研究者が中世の方まで時代を下げて女房と遊女の互換性を論じることにはどのような意味があったのか。
→遊女は女房と同じ階層の人々から発生するとされるので、その性格が中世まで残るということを確かめたかったのではないか。
水野僚子氏:様々な場面にいたはずの遊女が一様に描かれていることに意味があると思う。誰が遊女をそのように見たかったのかという問いが必要ではないか。例えば『一遍聖絵』の場合だと、酒宴・遊女と一遍の対比が重要。そういう描かれ方を読み解ける人でないと、あまり機能しないものだったのではないか。
→著者:絵の機能という視点からは、定型表現、図の引用などをどう理解すればいいのか。
→水野氏:絵描きが書き写して広がっていく場合と、典型的なイメージを描いている場合があるが、祖師の教えと関わっていないと書かれない。そういったところから一つ一つの絵巻の制作事情を見ていく必要がある。
曽根氏:遊女の容貌について書かれているが、貴族女性などの容貌は書かれないのか。
→著者:貴族の場合には基本的には髪とか立ち居振る舞いで判断されているのでは。
→水野氏:『源氏物語』を見ていると、美醜問わず容貌について書かれているので、容貌の判断自体はあったと思う。ただし、末摘花であっても貴族女性の容貌を絵に描くことはしないので、貴族女性としてあってはいけないことは描かなかったのではないか。
曽根氏:また近世だと隠れて売春をすることは違法なので史料に残るが、中世だと権力がそこまで関与しないのでは。
→中世だと売春自体を取り締まることはない。史料的にはむしろ仏教的罪業視が大きい。
→横山氏:近世も売春自体が取り締まられることはなくて、届け出ている場合にはむしろ権力には保証する義務がある。
 横山氏から、遊女の自立性が失われることを位置付ける上で、女性の地位低下を追究する女性史の成果を批判的に継承することの重要性が再度強調され、議論は終了した。
 今回、様々な時代・分野の方に意見をうかがって特に興味深かったのは、史料の扱い方をめぐる議論である。時代・分野によって全く感覚が異なるため、より丁寧な議論に努める一方で、中世史としての方法論を自覚的に深める必要性を痛感した。





15:00-17:15 研究報告

報告1 大名家奥向の空間と機能の可視化“試論”―仙台藩伊達家を中心に―
柳谷慶子(東北学院大学)


1.武家の奥向研究の進展と史料群
 近世の武家の奥向研究は近年、あらたな成果を積み上げているが、博物館の展示にどのように活かされているのだろうか、また今後どのような展示の可能性を生み出せるだろうか。本報告はこうした問題関心のもとに、いくつかの観点から関係史料を紹介し、奥向の空間、および機能を可視的に理解するための視点をささやかながら提示した。
 徳川将軍家、および大名家には、それぞれ当主の女性家族がおり、当主家族に仕える奥女中の組織があったが、長らくその存在や職制の解明は歴史学の実証研究の対象とされずにきた。幕政史も藩政史も、もっぱら表向を担う男性家臣の役職や官僚化に着目し、また男性当主と家臣で執り行う政治儀礼に関心を向けてきた経緯がある。こうした研究状況の背景には大きく二つの問題を指摘できる。
ひとつは、当主の妻室や奥女中が担う任務に対して現代社会のジェンダーバイアスがかかってきたことである。奥女中は将軍・大名夫妻のそば近くに仕え、子女の出産と養育、および日常の衣食を中心とする暮らしの世話に従事するほか、当家と親族・一族家との通信役割などを担っていた。それは権力体としての武家の存続を図り、武家が備える格式の維持と再生産に関わる重要性を帯びた任務であった。だが「女中」の名称からは、近代の家で雇用された使用人のホームヘルパー的なはたらきがイメージされがちである。家事や育児の仕事に対する対価の低さもあり、時代のなかに正当に位置付けられずにきたといえよう。当代の私的な家事領域とは峻別される、「公的」性格を帯びていた任務・職務であることへの認識がもたれずにきたのである。
 二つ目として、奥向関係の史料は表向と比べれば残存度が少ない。人付きの職務であり、側近くに仕えることから守秘義務が課せられていたことが大きな要因の一つであろう。一次資料として伝存するのは雇用時の証文や誓詞ぐらいで、役職の中身に関する一次資料の残存度の低さが研究の関心を喚起しないできたことは否めない。
 ほかにも、奥女中の奉公は表の武士と異なり基本的に当人1代限りとされ、家としての継承がないとみられてきたこと、さらに政治に関与する言動を戒められてきたことなどを挙げてよいだろう。5.jpg
 1990年代に入り、長野ひろ子氏により、歴史学にジェンダー視点の導入の必要性が主張され、近世政治史の読み解きにもその観点が示されると、将軍家・大名家の奥向に対して「政治領域」「公的領域」の視点が及ぶこととなり、関係史料の掘り起こしが速度を増してきた。幕政・藩政史料の一群に奥女中の分限帳が多数発見され、正室の日常を記す奥日記や、子女の誕生とその生育儀礼を記す記録類なども見出されてきた。この間の経緯については、福田千鶴氏『近世武家社会における奥向史料に関する基礎的研究』(平成16年度〜19年度科学研究費補助金基盤研究C)、同『日本近世武家社会における奥向構造に関する基礎的研究』(平成21年度〜23年度科学研究費補助金基盤研究C)、菊池(柳谷)慶子 『近世武家女性のライフサイクルと奥奉公に関する基盤的研究』(平成23年度〜26年度科学研究費助成事業・学術研究助成基金助成金基盤研究(C)などを参照されたい。
 奥向が担った主な役割には、@子女の出産と養育による世襲の家の継承、A世継ぎの男子の初期教育、B一族・親族との贈答・文通による交際、C諸儀式の執行などがあり、さらに参勤交代時の江戸上屋敷における正室や後家の指揮権の発動や、表儀礼への参加、幼少当主の後見役割なども明らかにされてきている。一方、奥向は表向と異なり、組織と規模は当主の代ごとに流動的であることは十分に認識される必要がある。当家メンバーの数や出自は代により異なり、奥女中の任務は人付きであることに起因するものである。

2.奥向を扱った展示の動向 
 最近10年ほどの全国の博物館の展示で、奥向が取り上げられた例の多くは、婚礼儀式とその調度及び衣装を並べて解説を加えるものである。徳川美術館所蔵国宝「初音蒔絵調度」(3代将軍家光の娘千代姫が尾張徳川家2代光友に嫁ぐ際に持参)の歴史はよく知られているが、各大名家の歴代正室の調度品や雛道具、衣装などが、県立・市立博物館での展示に定期的に登場し、所有者の人生に関心が向けられてきた。2017年度でみれば、9月に徳川美術館本館「秋季特別展 天璋院篤姫と皇女和宮」、10月には東京都立中央図書館「幕末の大奥と明治の皇城―和宮と昭憲皇太后」などがある。
 仙台市博物館で2001年に仙台開府400年記念として開催された特別展「大名家の婚礼 お姫さまの嫁入り道具」はまさにその名称通りの展示であったが、2015年度の企画展示「仙台藩主勢ぞろい!―初代伊達政宗から13代慶邦まで―」では、13代にわたる歴代藩主と正室をセットで肖像画、自筆書状、絵画・和歌を展示したことに大きな特徴があった。従来関心を向けられなかった正室たちの血肉を感じさせる所蔵史料を掘り起こし、出自や夫婦の関係を紹介した展示の方法は、担当学芸員の問題意識がうかがわれ、展示品の一つ一つに興味を引き付けられた。
 さらに近年の研究成果が可視化された展示の例として、江戸東京たてもの園 2011年4月の特別展「武家屋敷の表と奥」では、複数の屋敷絵図の比較検討をおこなっている。これに先立って鳥取県立博物館の2006年「女ならでは世は明けぬ―江戸・鳥取の女性たち」は、鳥取藩の女性の資料を庶民と武家の双方で出していたが、武家女性については屋敷絵図、書簡、道中日記、肖像画、衣装を展示し、奥女中の分限帳をはじめ豊かな史料群の紹介があった。
 一方、国立歴史民俗博物館では1994年、企画展示「近世の武家社会」が開催されている。ここに女性の姿がみえないのは、当時の研究状況を映し出すものであろう。2010年の企画展示「武士とはなにか」では、Y章「文武両道」のなかで、奥女中の出世をテーマとする「奥奉公出世双六」と「新版娘庭訓出世双六」の二点が展示された。双六は、男性にとって出世は身分を超えないことを示唆するが、これに対して上記の双六は、農民や町人から奥女中となる道を示しており、すなわち女性は奥女中となることで武士身分に身上がりできる可能性を伝えている。展示史料にはほかに「川路佐登子日記」があり、解説が加えられている。奥女中の身分を取り上げるのであれば、将軍家や大名家の分限帳は有効な展示資料になるはずである。
 
3.奥向を可視化させる史料群
 奥向の「公的」領域を展示として可視化するうえで、どのような史料群の提示が可能だろうか。以下、@大名家の奥向空間、A奥女中の衣装と髪型の描写に注目し、さらにB出産・養育、教育役割、C奥向の交流を支える文通役割、に関して史料群をみておこう。
(1)奥向の空間構造
 江戸城大奥絵図、大名家の屋敷絵図については、表・中奥・奥の配置、奥における御殿向(正室の居所)・長局(奥女中の生活空間)・広敷向(男性家臣の詰所)の配置が知られるが、さらに部屋割に注目することで、女性たちの日常の暮らしや仕事空間の理解が深められる。一つの大名家で江戸屋敷と国元の居城の奥向を比較し、さらに複数時期の建物群の比較検討をおこない、表向と奥向、奥向のなかの変化の模様も探りたい。
部屋割と奥日記の記載とを合わせてみることにより、奥向でおこなわれる正室と奥女中による諸儀式の一連の流れや、奥女中相互の仕事の連携ぶりなどをイメージすることも可能となる。
 一方、一関市立博物館蔵「宣寿院六十画図」は、一関藩田村家6代藩主宗顕正室かね(1793〜1855)の還暦祝の模様を描いた画図であるが、祝宴が催されたと思われる江戸中屋敷奥向の座敷の構造や意匠、また儀礼における演出に推察を加えるだけでなく、当主夫妻と奥女中の儀礼時の姿も推察できそうである。

(2)奥女中の髪型と衣装
 男性武士にはその身分・格式の序列の標識となる衣装が定められている。将軍および大名の姿を残す肖像画や、日常の姿を映した絵が少なからず伝来し、上記の点を考察できる。これに対して奥向の女性の化粧と髪型、衣装の特徴を知る史料として、正室については同時代の肖像画が残るが、仙台藩伊達家の場合は、歴代当主夫人の肖像画が揃って伝来し(仙台市博物館所蔵)、正装すなわち儀礼時の姿を推し量る資料として貴重である。
 楊洲周延による浮世絵「千代田の大奥」は明治半ばの作品群であるが、旧江戸城大奥女中によるヒアリングをもとに執筆・刊行された『千代田城大奥』の情報に基づくものとされ、映画やテレビドラマで江戸城大奥を描くうえで重宝されてきた。(パブリックドメイン美術館「浮世絵千代田之大奥」で閲覧可能)。創作性の強さを疑いえない部分があり、歴史資料としての分析に慎重さを要するが、大奥の年中行事における将軍夫人と奥女中の衣装と髪型の様式や、化粧のありかたなど知る資料として、検討の余地があろう。
 一方、藩政文書の一群にも奥女中の姿を映した史料を見出せる。前述した「宣寿院六十画図」は一関藩田村家文書のなかにあるが、これと関係して一関市博物館には近年、藩校の教授により描かれた「宣寿院様在所御下之節御遊覧毎所真写」と題した画帳が寄贈された。宣寿院に従い江戸から一関に下った奥女中たちの城内外での姿が注目される(菊池(柳谷)慶子「大名家正室の領国下向と奥向―一関藩田村家宣寿院の事例を中心に―」(『東北学院大学論集 歴史と文化』52号 2014年)。
 奥女中の衣装・髪型の規則を記す史料として、仙台藩伊達家文書「御奥方格式」(仙台市博物館所蔵)は一級史料である。式日の衣装を定める巻八には、たとえば上級女中である御年寄と若年寄について、綸子の打掛を着用し、額に眉を描き、髪はすべらかしに長髢を付けるなど、具体的で詳細な規則を記している。巻三「衣服制之事」では、式日以外で全般的な役職の衣服の規則がわかる。奥女中の衣服と髪型・化粧の復元に最適な史料であるだけでなく、当家の格式や表の武士との比較などの視点をもつことで、ジェンダーを論じる材料にもなろう。

(3)奥向が担う出産・養育、教育役割 
 秋田藩佐竹文庫(秋田県公文書館所蔵)の一群には、藩主正室の懐妊記録である「御前様御妊娠留書」をはじめ、子女の懐妊から誕生後の儀礼をとどめる記録類が複数伝来する。藩政中期の改革政治の担い手として知られる9代藩主佐竹義和に関しては、『御亀鑑』(第一巻 江府一)に誕生以来の養育に関わる記事が収載されているが、こうした記事は従来、生育儀礼の検討に使われてきたくらいで、他に分析の観点を見出されてこなかった。
 世継ぎの出産、養育は大名家の存続に関わる当家の重要事である。近世中後期の大名家では3歳以前の子女の死亡率が高く、そのため相続の危機的状況が生まれていた。それだけに奥向のスタッフの配属、選定、スタッフ相互の連携の姿、養育役割が遂行される経過は検討されるべき問題であろう。
 文化9年7月に誕生した佐竹義和の嫡子雄丸の養育体制を「雄丸様御誕生留書」によってみると、懐妊を祝う着帯の儀式ののち、誕生月の1か月前には養育部屋が建設され、「御出生様御付女中」すなわち養育スタッフとして、奥女中と乳母を併せて11人があらたに採用され、引っ越しがおこなわれた。出産時には、子安姥・腰抱姥・子安姥下女・御乳母・むつき洗が雇われている。この養育スタッフは誕生儀礼の場に列席しており、その後の養育体制の動きも知ることができる。
 幼少時の世話だけでなく、藩主に育て上げる教育に、生母である正室や、後家の祖母の果たした役割もあった。これを知る手がかりの一つは書状(女筆)にある。7代藩主重村側室正操院は、血筋の孫斉宗に対して、藩主としての心得を諭す姿が書状の文面からうかがえる。多数の書状が残るが、一例として文化10年、17歳にして藩主となり、初入国を終えた斉宗に対して、上府の途上で正操院が送った手紙(『伊達家文書』2912号)には、無事に帰国を果たし、領内の末端まで評判がよく、安堵したことを述べた後に、「それニ付ても、猶随分随分御心かけ遊ハし、御意もはきはきと遊ハし、それそれ江御意被下候得者、誰々有難そんし上候ものニ御座候まま、もはや御十八ニも成らせられ候御事、いついつ迄も御若年様之やうニハ、人々も存不申候まヽ、くれくれも御意之所、御奉行はしめ、よう御はなし等も遊ハし候様ニと存上奉候」という一文がある。これは単に祖母の孫に対する心情の吐露で終わらせるものではないであろう。斉宗の父(斉村)・嫡母(鍇姫・信証院)の早世ののち、残された血筋の祖母として、教育役割の責務を自覚して与えた訓戒として読み取れる。

(4)奥女中の文通役割
 役方の奥女中の仕事の一つに、正室の意を受けて将軍家大奥や当家の姻族・一族の奥向と書状をやりとりする文通役割がある。このため役方トップの老女をはじめ、上級女中たちは、特異な女筆の書法(散らし書き・撥ね文字・文体等)を身に着け、日々少なからぬ数の書状を書いていた。
 一関藩田村家文書のなかに、当家の老女たちが本家である仙台藩伊達家の老女との文通にさいして作成した書状の下書き帳面が伝来する。「御本家様御老女江御文通下書」「御本家様御老女江御文通下書覚帳」「御本家様御老女江御文通下書覚帳」などと題されたこれらの帳面は、定型的かつ実用的な例文集としての便宜性を備えており、その後長らく文通のマニュアルとされたことを確認できる(前掲、菊池「「大名家正室の領国下向と奥向―一関藩田村家宣寿院の事例を中心に―」)。女筆については本研究会のメンバーである福田千鶴氏が第2回研究会で「近世女筆学の構築に向けて」と題して報告され、要旨が『日本列島社会の歴史とジェンダー ニューズレター』第2号に掲載されている。福田氏が指摘されるように、女筆消息からリテラシーの獲得に向けた女性たちの努力や消息自体の変化を明らかにする必要があり、その前提となる解読が進められなければならない。老女たちの日ごろの日課には、マニュアルに基づきながら季節の挨拶と用件を適格に伝える書状の技術を磨き、奥向の交流を担う姿があったのである。
 一方、伊達家の奥向は江戸城大奥との間で、定期的に時候の挨拶と献上品をおこなう関係が構築されており、これを担う奥女中は「女使」と呼ばれた。「女使」は御三家・御三卿のほか、将軍姫君が嫁いだ大名家など、将軍家と由緒の築かれた家だけに許される特権的な交流任務である。その具体的な姿は松崎瑠美氏が「大名家の正室の役割と奥向の儀礼」(『歴史評論』747号、2012年)ほか複数の論文で検証されているほか、柳谷も「大名家『女使』の任務―仙台藩伊達家を中心に」(『女性官僚の歴史』吉川弘文館、2013)で検討したことがある。
 伊達家の12代斉邦正室綵姫に関する記録である「天保十二年五月御記録」(明治大学刑事博物館所蔵)などには、年間の儀礼において「女使」を務めた奥女中の口上、書状のやりとりが知られる。また正室の代理となり江戸城に登城する女使一行の隊列や衣装などに触れた史料もあり、その姿の復元は十分に可能である。登城行列は大名家の権威を可視化するもので、一般的には乗物(蒔絵・鍍金金具・緞子)・長刀・挟箱(2荷1組)・歩女(紗綾や縮緬に伊達染の小袖)を伴うが、伊達家の隊列は当初から地味な成り立ち(青漆の乗物、長刀・挟箱はなし、歩女は木綿着用)を特徴としたことも知られる(『伊達家文書七』2548号)。 
 最後になるが、奥女中が就任にあたり提出する「奥女中誓詞」の紙質は、弘前藩津軽家や伊達家のものを見る限り、表の男性役人の起請文と比べて劣る。比較してその事情を探ることもジェンダーの視点の一つであろう。
 以上、本報告は史料の断片的な提示にとどまったが、当日は学際研究の場にふさわしい多くの示唆を頂戴した。記してみなさまに心より御礼を申し上げたい。

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◆10日(日) 9:00-14:00
9:00-14:00 研究報告                              

報告2 中世前期の貴族社会における女房 ―男女之栄―
伴瀬明美(東京大学史料編纂所)


 女房とは、天皇および諸院宮・(女御などの)キサキ、摂関家等の貴族家などに仕える侍女であるが、女房たち自身も貴族階層の出身であり、貴族社会の一員である。
 女房に関しては、摂関期の女房の存在形態を総合的に明らかにした吉川真司氏の研究があるほか、院政期以降、中世前期の女房については、女院制度を人的に支えたものとしての女房の存在形態を五味文彦氏が明らかにしている。
 本報告では、女院研究から離れて、改めて中世前期の女房について考えることとし、中世前期の貴族社会において女房として出仕することの意味に焦点を当て、摂関期の女房との違いに留意しつつ、藤原定家やその姉が残した豊富な記録をもとに検討した。7.jpg
 宮内庁書陵部蔵『砂巌』巻五所収「藤原俊成男女交名」(以下「砂巌交名」)は、俊成の子である定家自身が作成したとされる俊成の子どもたちの交名である。男女を通じて一世代の全子女が記されている貴重な事例であり、とくに女子に関する記述が詳しい点も重要である。『尊卑分脈』では俊成の女子として記されるのは4人、そのうち女房としての出仕が記されるのは1人のみだが、「砂巌交名」よれば女子は11人で、全員が女房として諸院宮に出仕していた。これによって、『尊卑分脈』の女子に関する記述が相当省略されていることが改めて確認されただけでなく、女房としての記載がなくとも女房であったケースがかなりあるであろうことがわかる。
 次いで、この「砂巌交名」と『明月記』本記にみえる記事をあわせて俊成の娘たち11人の交名(以下「明月記交名」)によって、俊成の娘たち11人それぞれについて女房出仕その他の事蹟を整理したところ、出仕先は八条院、後白河院、好子内親王、建春門院、式子内親王、高松院、上西門院、承明門院と様々で、出仕先の変更もあり、宮仕え後に結婚し子を産むケースも多いことなどがわかった。そして重要なのは、藤原定家がこれらの交名において、俊成女子11人全員が禁色をゆるされ、数多くの出仕先において重用された女房であったことに重きをおいており、それを誇るべき、記録に値することとして記したと考えられることである。
 この「砂巌交名」からうかがえる女房出仕に関する意識は、摂関期の宮仕えをめぐる言説とは大きな差異がある。摂関期において女房として出仕することは、女房文学のなかで女房たち自身によって、ともすれば軽く見られ、不本意であることとしてしばしば語られた。『栄花物語』には、女房としての出仕が恥であったり、零落の象徴とされるようなエピソードが多くみられる。
 一方、中世初頭において、女房としての出仕はどのように意識されていたかを『明月記』本記に見ると、定家は長女が禁色を許された日の日記で、その喜びを前年に長男が蔵人頭に補任されたことと並べて「不肖之身、男女之栄、分已以満足」と記し、父俊成についてはさらに「女子禁色、男子昇殿」という恩寵に預かっていたことを記している。男子が官人として出仕するように、女子は女房として出仕し、重用され、栄達を遂げることを家の名誉とする意識が読み取れる。
 摂関期からの意識の変化の背景には、藤原道長・頼通による度重なる良家女子の召し出し、院政期における後宮秩序の変化、さらに荘園制の成立にともなう貴族家の経済基盤の変化など、摂関期から院政期にかけての女房をめぐる社会関係の変化があり、それによって、女房としての出仕が貴族女性の生涯における一般的なあり方になっていったと考えられる。
 そうした段階ではもはや出仕するかしないかではなく、どのような形で出仕するかが重要になる。定家の姉が記した『たまきはる』から、皇太后(後に建春門院)平滋子の女房集団の秩序のあり方をみてみると、主人との関係や家格による上臈・中臈・下臈の区分、それによる祗候場所、その設え、装束の差異、禁色といったもののほか、女房名、乗車の順序などの秩序指標が存在したことがわかり、それが乱されることは女房本人とその家族にとって重大な問題であったことがわかる。女房集団において多様な秩序指標がみられたのは、官位によって秩序づけられる男性官人とは異なり、女房の多くが無位無官であったことが関係していると思われる。ここまでの厳格な秩序は、『紫式部日記』や『枕草子』からうかがう限り摂関期にはみられない。
 摂関期とは異なる多様な指標による厳格な秩序の存在が、「砂巌交名」、『明月記』にみえる禁色への執着であり、これらが書かれた背景といえよう。さらにその背景にあったのが、家格の確立と思われる。官人(男子)にとって家格にあった昇進、処遇(昇殿等)を受け、極官に上れるかが死活問題であったように、女房(女子)も、家格と女房名や序列がつりあうか、しかるべき処遇(禁色勅許等)が得られるかが家にとって重大な問題となった。男性官人においてみられるように、女房についても上位者の養子となることにより処遇の向上をはかる事例がみられる。女房としての出仕は出身の家と密接に関わるものであった。そのことは定家が自身の娘の出仕に深く関与していることからもうかがえる。
 中世前期の貴族は、男性は官人として、女性は女房として出仕し、それらはいずれも「官仕」(訓は「みやづかへ」)と記された。だが男性が政治行政に携わる一方、女性は(取次等に政治的役割があるとはいえ)基本的には主人の身の回りの世話に従事したのであり、ここに「公に仕える」ことにおけるジェンダーを見て取ることができよう。
 ただし、東アジアに視野を広げると、貴族階級の女性が「出仕」すること自体が東アジア諸王室では異例であることがわかる。中国歴代王朝、朝鮮王朝では女官・宮女は基本的には低い身分であり、多くが不自由身分であった。日本列島における社会集団とジェンダーを考えるとき、女房のあり方は(女官についても)興味深い材料の一つではないだろうか。


報告3 形成期の皇祖観をめぐって
義江明子(元帝京大学)


 6〜7世紀の女帝を輩出した王族集団のありようと、双系的社会を土台に父系皇統観が形成される過程を考えることが、本報告の課題である。
 古代女帝については、通常の皇位継承困難時に「仮即位」したとする女帝「中継ぎ」説が、長らく通説だった。これは、実際の統治機能は男性が担ったとする女性非統治者説でもある。しかし1990年代末以降、性差を前提としない研究がすすみ、男女ともに年齢と血統的条件を満たし資質のある者が、群臣に推戴/承認されて即位したことが明かになった。現在では、男女ともに実質的統治者であることは、学界の共通理解となっている。その上で、皇位継承の上ではやはり父系継承のための「中継ぎ」とみるべきとの考えも根強い。他方で、古代の基層の親族原理が双系的なものだったことは、現在、広く認識されている。支配層から次第に父系に傾斜しはじめるが、7世紀においては「母からの皇位継承」も実態/観念においてあり得たのではないか。父系皇統として記述されている記紀を基本史料としつつ、「母からの皇位継承」をいかにして検出できるか、皇極=斉明とその子たちを焦点に考える。8.jpg
 舒明と皇極の間に生まれた天智・天武兄弟の子孫が奈良・平安時代の皇位を継承していくことから、舒明の段階に画期を認める「舒明王統」説がある。雄略の伝承歌の次に舒明以降の御代の歌を掲げる『万葉集』巻1の時代観も、それを裏づける。しかし、7世紀後半の史実としては、歴代遷宮の習わしを超えて舒明「岡本宮」に重層して築かれた飛鳥宮も、舒明以降の天皇陵に特徴的な八角墳も、皇極=斉明が作り出したものである。また、7世紀末〜8世紀初には、斉明を皇統権威の起点として重視する意識が認められる。
 皇祖観としては、どうだったか。「皇祖大兄」:彦人(舒明の父で、皇極の祖父)、「皇祖母尊」:皇極=斉明、「皇祖母命」:糠手(舒明の母)、「皇祖母命」:吉備(皇極の母)と、『書紀』には「皇祖」を冠する四名の男女が見える。七世紀前半〜半ばにかけての人物である。ここにみられるのは、「皇祖大兄」を起点とする父系直系皇統観ではなく、皇極母子を起点とする三〜四世代深度の、逆三角形をなす双系的系譜意識である。
 「大兄」は「母を同じくする同母子単位集団の代表」〔荒木敏夫〕である。複数の大兄が「王位継承有資格者」となり、互いをライバルとして争った。従来は注目されていないが、この同母子単位には「大兄」とともに、その母(キサキ)である女性尊長「御祖」(ミオヤ)の存在が不可欠である。「皇祖大兄」と「皇祖母」はたんなる親族名称ではなく、「皇祖」と位置づけられた特別のオオエ/ミオヤをさす尊称とみるべきだろう。
 『旧唐書』によると、中国皇帝の冊封下にあった新羅善徳王(642-645治世)は国人から「聖祖皇姑」の号を奉呈された。この「皇」は「仏教的な神聖観念」を表すという(盧泰敦)。現在、君主号としての天皇号の成立は天武朝とみる説が有力だが、「皇」(スメ)観念の成立と天皇号の成立は切り離して考えるべきである。『古事記』が穴穂部王(欽明の子、用明の異母弟)について記す「須売伊呂杼」(スメイロド)は、欽明の男女四子が相ついで即位する世襲王権成立の画期において、「スメ」観念の萌芽したことを示唆する。皇極は同母弟孝徳への史上初の譲位に際して、「皇祖母尊」(難波宮出土木簡によれば、当初は「王母」か)の称を奉呈された。この特別の尊称を起点に、四名の「皇祖」称が双系的「皇祖」観として(斉明時に?)成立したとの見通しを、仮説として提示しておきたい。
 舒明と皇極=斉明の子は、中大兄(天智)・間人(孝徳のキサキ)・大海人(天武)の三名である。『万葉集』巻1の3番・10番題詞にみえる「中皇命」は間人をさす。「中」は二番目の意味で、男女混合配列で間人は第二子である。『古事記』の天皇系譜が示すように、6〜7世紀は、男女の「王」(ミコ)を、男女混合配列で、同母子単位で書き上げるのが通例だった。7世紀後半に王族称号の序列化がすすみ、天皇の子は「皇子」「皇女」、他の王族は「王」「女王」の称号が定まった。処遇差の制度化を伴う、ジェンダー表記の成立である。天皇号の成立と連動する「皇子」(ミコ)「皇女」(ヒメミコ)の略記である「皇」は「ミコ」だが、それ以前の「皇」字は「スメ」として別個の解釈が必要である。「中皇命」は「ナカツスメラミコト」(中天皇)でも「ナカツミコノミコト」でもなく、「ナカツスメミコト」と訓むべきだろう。「スメミオヤ」(皇極)の尊貴なミコたちの二番目の意味である。
 大海人(天武)を、『書紀』は「大皇弟」等と表記する。中大兄(舒明の子として、異母兄古人大兄に次ぐ二番目の大兄)の弟としての「皇弟」(スメイロド)の地位を示す美称である〔仁藤敦史〕。同時に、「皇祖母尊」(スメミオヤ)の子で、「中皇命」(二番目のスメミコ)につぐ「皇弟」(スメイロド)でもあり得るではないか。
 敏達〜皇極=斉明まで、6〜7世紀の大王たちは、日常的な絆/親愛感に基づく母子同葬を望むことが多かった。だが持統は、若くして亡くなった息子草壁とではなく、前王天武との両君同葬を選んだ。持統3〜5年には歴代天皇の確定と同時並行で歴代陵墓(に相当する古墳)の選定がなされ、この選定作業は8世紀前半まで続く〔北康宏〕。6〜7世紀の男女大王はほぼ40歳以上で即位し〔仁藤敦史〕、これは、村落社会の年齢秩序とも対応するらしい〔田中禎昭〕。697年、持統の譲位による15歳の孫文武の即位は、こうした長らくの慣行を破る出来事だった。これを可能にしたのは、律令国家体制の確立と皇太子制の成立である。皇極母子を起点とする双系的皇祖観から記紀にみられる父系直系皇統観への転換は、持統朝から8世紀前半にかけてなされた、と見ておきたい。
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2018年01月12日

国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」開催のお知らせ

国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」
동아시아 문자문화와 젠더
Culture of Writing and Gender Studies in East Asia


◆開催趣旨
ジェンダー史研究は世界の学界の重要な潮流となっており、国立歴史民俗博物館においても平成28年度から共同研究「日本列島社会の歴史とジェンダー」を進めています。こうした流れを前提に本研究集会では、日本と韓国の文字文化の問題を比較史的に検討し、東アジアの文字文化の特質をジェンダーの視点から浮かび上がらせることを目的とします。
たとえば日本においては、漢字と仮名の関係をジェンダーの問題としてとらえることができますが、同様に韓国においても、漢字とハングルの関係をジェンダーの視点からとらえることが可能です。交流協定を締結している韓国国立ハングル博物館とともに本研究集会を主催し、文字文化とジェンダーの関係を、東アジアの中でとらえることをめざします。

◆日時:2018年2月21日(水) 10:30 〜 16:45
◆場所:国立歴史民俗博物館大会議室(管理棟1階)
   ※管理棟入口からご入場ください。地図はこちら
◆定員:50人程度(対象:研究者、学生可)先着順(要事前申込)
◆参加費:無料
◆使用言語:日本語(一部韓国語・逐次通訳あり)
◆主催:国立歴史民俗博物館
◆共催:韓国国立ハングル博物館
◆協力:JSPS科研費(15K02813)
   「東アジア諸王室における『后位』比較史研究に関する国際的研究基盤の形成」

◆申込方法
参加申込フォームに必要事項をご入力のうえ、お申し込みください。
参加申込フォームはこちら

◆スケジュール
10:30-10:45 開会・開催趣旨説明
10:45-11:45 館長挨拶・博物館活動紹介
       国立歴史民俗博物館/韓国国立ハングル博物館
11:45-13:00 休 憩
13:00-14:00 ユ ホソン(Riw, Ho sun)韓国国立ハングル博物館
       「朝鮮時代女性読者のためのハングル資料」
14:00-15:00 イ ヒョンジュ(Lee, Hyunju)韓国成均館大学校
       「韓国古代金石文と女性
        −『蔚州川前里書石』から見た新羅の王室女性−」
15:10-15:15 休 憩
15:15-16:00 三上 喜孝(MIKAMI Yoshitaka)国立歴史民俗博物館
       「古代日本の文字文化とジェンダー」
16:00-16:40 コメント 伴瀬 明美(BANSE Akemi)東京大学史料編纂所
       総合討論
16:40-16:45 閉会挨拶

司会:仁藤敦史(国立歴史民俗博物館)

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2017年10月31日

第6回研究会(公開)のお知らせ

歴博基盤共同研究「日本列島社会の歴史とジェンダー」では、下記要領で第6回研究会を開催いたします。
ご参加をご希望の方は12月7日(木)までに、下記の研究会アドレス宛にお申し込みをお願いいたします。
研究会参加費は無料です。是非お気軽にご参加下さい。
本研究会ポスターはこちら→クリック

◆場所 国立歴史民俗博物館 大会議室 第一会議室に変更となりました
◆日時 2017年12月9日、10日
9日(土)
12:40-15:00 辻浩和著『中世の〈遊女〉生業と身分』(京都大学出版会、2017)書評者:曽根ひろみ氏(元神戸大学) 
15:15-17:15 柳谷慶子「大名家奥向の空間と機能の可視化“試論”―仙台藩伊達家を中心に―」
懇親会

10日(日)
9:00-11:00 伴瀬明美「王族・貴族の女性が中世社会で生きること(仮)」
11:15-12:15 義江明子「形成期の皇祖観をめぐって」前半(発表)
13:00-14:00 義江明子「形成期の皇祖観をめぐって」後半(討論)

◆研究会参加申込
申込締切:2017年12月7日(木)
お申込先:gender*rekihaku.ac.jp ※「*」を「@」(半角)に置き変えてください。
@ご氏名、Aご連絡先(メールアドレス)、B学生or一般、C懇親会(別途要参加費)参加ご希望の有無
上記4点をお知らせ下さい。

お返事には一週間程度お時間をいただく場合がございます。
あらかじめご了承ください。
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2017年09月08日

第5回研究会(公開)のお知らせ

歴博基盤共同研究「日本列島社会の歴史とジェンダー」では、下記要領で第5回の研究会を開催いたします。
また、併せまして日本女子大学成瀬記念館の見学会を行います。
ご参加をご希望の方は10月25日(水)までに、下記の研究会アドレス宛にお申し込みをお願いいたします。研究会参加費は無料です。是非お気軽にご参加下さい。
本研究会ポスターはこちら→クリック

◆場所 見学会:日本女子大学 成瀬記念館
    書評会:日本女子大学目白キャンパス、百年館演21教室 
   
◆日時 2017年10月28日(土)
    見学会:13:00―13:40(集合場所:成瀬記念館エントランス)
    書評会:13:40―16:30(集合場所:百年館演21教室)
※見学会は記念館の学芸員さまにご依頼していますので、集合時間厳守でお願いいたします。
 書評会の開始時間は見学会の進行状況により多少前後する場合がございます、ご了承ください。
 
◆内容 書評:義江明子著『日本古代女帝論』(塙書房2017)/書評者 田中禎昭氏(専修大学)

◆研究会参加申込
申込締切:2017年10月25日(水)
お申込先:gender*rekihaku.ac.jp ※「*」を「@」(半角)に置き変えてください。
@ご氏名、Aご連絡先(メールアドレス)、B学生or一般、C懇親会(別途要参加費)参加ご希望の有無
上記4点をお知らせ下さい。

お返事には一週間程度お時間をいただく場合がございます。
あらかじめご了承ください。
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