2017年04月11日

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター4号

例年よりも春の訪れが遅く感じられた今日この頃ですが、新年度のはじまりで皆様お忙しくお過ごしのことと存じます。「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第4号では、過日行われた第3回研究会の報告を掲載いたします。
本研究会も2年目を迎えましたが、今年度は国際研究集会の開催を予定しております。今後もこちらから随時お知らせ等お送りいたしますので、引き続きよろしくお願い申し上げます。
本記事と同内容のPDF版はこちら→日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター4号

見学会報告
第3回研究会は長野県にて開催され、初日が研究報告会、2日目が中野市・須坂市巡見、3日目には有志で須坂市の坂本家文書調査を実施いたしました。概要および報告要旨は以下の通りです。

歴博基盤共同研究「日本列島社会の歴史とジェンダー」第3回研究会
2017年3月18日(土)−3月20日(月・祝) 

◆3月18日(土) 13:00−16:50 於:長野県須坂市上高井郡旧郡役所 

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報告1 殯宮儀礼の主宰と大后−女帝の成立過程を考える−
仁藤敦史(国立歴史民俗博物館)

 昨年の8月8日にマスコミに対して公開された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」には、「これまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては,重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、1年間続きます」との発言があった。ここには古代以来の長期に行われた「殯」という、埋葬までにおこなわれる種々の葬儀儀礼についての言及がなされている。殯とは、死者の復活を願いながらも、遺体の変化を確認することで最終的な死を確認するという両義的な儀礼であった。しかし、3世紀の「魏志倭人伝」の記述では10日程度の期間であったとする葬儀が、7世紀の『隋書』倭国伝では、一般的な葬儀と区別されて、支配層は3年のモガリを行ったとあるように、長期化していることが確認される。おそらく渡来人の喪葬儀礼の導入によりモガリが整備され、長期化して「殯」と表現されるようになったと考えられる。やがて、モガリは特権的な儀礼として神聖化され、この期間中に合意形成により後継者を決定するということが一般化し、皇位継承と深い関係を有するようになった。盛大なモガリ儀礼を首尾よく終えることが政争の回避に重要な意味を持つようになったのである。
 本報告の目的は、古代における殯宮儀礼の主宰者と考えられるオオキサキ(大后)の役割を解明し、女帝即位への道筋を考えることにある。
 殯宮の儀礼については、和田萃氏が1969年に発表された「殯の基礎的考察」という論考が通説的位置を占めている。和田氏による論点は多岐に渡るが、巫女的な「中継ぎ」女帝即位に連続する「忌み籠もる女性のイメージ」を前提に、内外に二分された殯宮のあり方を提起している。すなわち、殯宮内部での儀礼と殯宮が営まれている殯庭での儀礼に二分されること、前者はおそらくは女性に限られた血縁者や女官・遊部らによる私的な奉仕儀礼であり、後者は王権内部での殯庭での公的儀礼と位置付けられている。天武の殯宮には鸕野皇后が籠もり、草壁は喪主として公的儀礼に供奉したと対比的に位置付けるように、殯の全期間に籠もる女性を強調する点が特色となっている。女帝即位との関係は皇位継承の争いを避け、これを鎮める便法とされるように、井上光貞や折口信夫以来の巫女的な「中継ぎ」女帝論を前提に論じられている。殯宮の二分法的な理解については、河原での儀礼との連続性の観点や、喪屋(殯大殿)と殯庭(誄)が門(兵衛)と垣で囲われる一体的な構造からは、成立しにくいことを指摘した。
 近年、稲田奈津子氏は、こうした通説的な和田説に対して、殯宮に籠もった皇后に先帝の天皇権力が委譲されるという、いわゆる「忌み籠もる女性イメージ」に対して疑問を提起された。本報告では、この和田説批判における「忌み籠もる女性」という論点を全面的に肯定しつつも、元キサキによる「殯宮の主宰」という論点については、女帝即位に連続する権力的な分析に依拠すれば、異なる意味付けにより継承できるとした(なお、モガリの主宰は前王の近親者が務めたと想定され、斉明死去時の中大兄のように必ずしも女性に限定されないが、その機会は多かった。当然ながら、通説のようにモガリの宮に常時籠もる必要はない)。
 主要な根拠としては、第一に大王の在位中においては、キサキとしての輔政・共治は顕著に認められないこと(たとえば、持統のキサキとしての執政実績の強調は、『漢書』『後漢書』皇后紀による潤色であり、明確な根拠とはならない)。第二に、推古没後の混乱において「葬礼畢りぬ。嗣位未だ定まらず」(舒明即位前紀推古三六年九月条)とあることからすれば、通常はモガリの終了までに皇位継承者が決定していたと推測され、実例においてもモガリの最終段階での誄による日継の奏上(嗣位の決定)がなされていたこと(持統二年十一月乙丑条)。反対に用明天皇は「諒闇に居すと雖も、勤めざるべからず」という状況のため「即位と称せず」(『伝曆』)と評されたように殯終了以前の即位は正式な即位とはされていない。第三に、『日本書紀』編者の意識として「空位は一日だに空しかるべからず」(仁徳即位前紀)という認識があるにもかかわらず、モガリ期間のみの権力行使は「称制」などとは表現されないことが指摘できる。すなわち、モガリ期間における、元キサキによる行為は、「空位」とは認識されない慣習的かつ制度的な大王代行であったことになる。少なくともモガリ終了後も即位しなかった長期の「空位」事例のみを「称制」と称している。第四に、正史において女帝の即位について立太子記事が孝謙即位を例外として見えないが、日継の誄により認定される男性のミコに対して、女帝はすでに「モガリの主催」により権力的な認定がされていることが一つの要因として考えられる(皇統譜意識において母たるミオヤとしての即位であったことが別な要因としては指摘できる)。第五に、殯期間を中心とした空位時において、元キサキによる人格的権威を前提とした「宣・告・命」とも表現される口勅が多数発出されていること。これは殯宮においては生前と同じような群臣による奉仕関係が長期に継続することが背景にある。殯期間における殯宮の主宰者は前王と権力的に一体化した大王の代理的存在であった。第六に、中国における類似な事例として、漢の呂太后は宗廟社稷を奉じる存在であることから、次の帝位を定める資格があったことが指摘されている。これは、帝位を継ぐことにより血縁にない先帝との間に父子関係が発生し、それが母子関係にも及ぶことが前提にある。
 以上のような根拠により、女帝出現の背景として、モガリの期間中に元キサキが大きな政治的役割を果たしており、それは前王の近親者としてモガリを主宰したことに求めるのが妥当と判断した。




報告2 セクシュアリティ発現の〈場〉としての遊女屋
辻浩和(川村学園女子大学文学部史学科)


報告者は、『中世の〈遊女〉生業と身分』(京都大学学術出版会、2017)において、13世紀後半頃における「遊女」の変容を論じ、芸能性の減退と売春性の前面化、都市における遊女屋の増加などを指摘した。これを受け、本報告では、13世紀後半以後、遊女と客との接触態様がどのように変化するのかについて、〈場〉としての遊女屋に着目しながら論じた。
 まず、売春性の前面化によって、「遊女」への評価基準は容色を中心とする視覚的なものに変化した。これに伴い、遊女屋の入口では遊女を視覚的に評価・値踏みし、直接交渉を行うようになっていったと考えられる。16世紀から17世紀にかけての史料では、絵画史料・文献史料ともに、遊女屋の戸の脇から身を乗り出して客の袖を捉える「遊女」の姿が描かれている。こうした交渉の姿が、遊女の典型的なイメージになっていたと考えられる。
 次に、13世紀以降の「遊女」史料では、酒宴や酌に関する記述が増加する。お酌は12世紀後半以降の私的空間拡大に伴って増加したと考えられるが、歌謡や芸能への関心低下によって、酌への関心が表に出てきたものであろう。酒宴の場では「思ひ差し」などによって特定の遊女を選ぶことが行われており、「遊女」と客との関係は、芸能における一対多数の関係から、一対一の個的な関係へと変容していることがうかがわれる。
 こうした関係の変容を受けて、「遊女」をめぐる喧嘩や殺人の史料が見えるようになってくる。さらに15世紀後半以降は、誘拐・人身売買による「遊女」の補充が行われるようになり、遊女屋は物騒な場になっていくようである。遊女屋と博奕を共に取り締まる法令がたくさん残されていることは、こうした治安上の不安から遊女屋が忌避されていく様子を示しており、奈良で遊女屋の破却が頻繁に行われていることも、おそらく秩序維持と関わるものと考えられる。従来の研究では、遊女屋の忌避と、「遊女」の特殊視とは、連動して戦国時代に起こった動きと考えられてきたが、遊女屋の忌避が13世紀後半以降見られることを踏まえれば、両者は別個の動きとして見ていく必要があると思う。
 以上の3点を指摘して、中世後期における遊女屋の変容と、近世遊女への展開を大まかに見通した。

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◆3月19日(日)
2日目は以下の通り中野市内・須坂市内の巡見を行いました。

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▼中野市立(仮称)山田家資料館
 山田庄左衛門家は近世初期からこの地に土着していた豪農で、酒造業や金貸、地主経営等で利益を上げるとともに、地主として同地で頻発する千曲川とその支流の水害対策に当たり、明治4年には千曲川瀬直し工事を完了させている。また、明治3年、信濃の世直し一揆の中では最も苛烈であったという中野騒動の際には、当時の商社人筆頭ということで屋敷の打ち壊しに遭った。現在、約1200坪の土地・江戸後期から明治に建てられた土蔵群を含む建造物・資料は中野市に寄贈され資料館として希望者に公開されている。移動のタクシーを降りた大ケヤキの位置から資料館入口である裏門までかなりの距離があり、屋敷地の大きさを実感した。この日は展示室や広大な土蔵群を見学させていただいた後、山田家文書を閲覧。閲覧資料は幕末維新期、山田家が江戸の新吉原の遊女屋経営に投資を行っていたことに関わる文書と、同じく幕末期に江戸から当時隠居の山田隼人(八代目庄左右衛門)の元に14歳で妾奉公にやってきた岩井貞子の関連資料である。「妾奉公」とは言っても、その実貞子は隼人死去後も剃髪して信濃に残り、自身の教養を活かして山田家の子女の教育にあたるとともに、地域の人々に和歌や書、裁縫を教え、山田家との繋がりも継続していたといい、その生涯には興味深いものがあった。

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山田家の鬼門に位置する大ケヤキ

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広大な屋敷地の西側の一角を囲む土蔵の白壁

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山田家文書閲覧の様子。遊女屋経営への投資に関わる文書は柿渋を塗った包装紙(写真右)や着物を包むたとう紙に再利用されたことにより残された。


▼中野陣屋県庁記念館
 近世には中野陣屋、明治初期には中野県庁が置かれていた場所で、現在はコミュニティホールやギャラリーとして活用されている。開催中であった「中野土人形 市川一生コレクション」展を見学。


▼豪商の館 田中家博物館
 田中家は穀物や煙草、酒蔵業等を営み、代々須坂藩の御用達を勤め名字帯刀を許されるとともに、幕末期には藩財政にも関わった豪商・大地主である。土蔵を改装した展示室では企画展「おんなの節句 田中本家の雛人形ときものと」が開催されており、同家の富裕さをうかがわせるずらりと並んだ雛人形や、色鮮やかな着物を見ることができた。

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その後天明期に作庭された池泉回遊式庭園をはじめとした四つの庭園や主家といった建物群を見学。廻遊式庭園は小山まで設えてある見事さで、桜も紅葉も時期外れではあったが、須坂藩主がこの庭を気に入り度々お忍びで訪ねて来ていたというのも頷けるものだった。

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回遊式庭園(大庭)

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須坂藩主がここからお忍びで訪ねてきたという「お忍びの門」


▼須坂市文書倉庫にて坂本家文書閲覧
 山田家と並ぶ豪農、坂本幸右衛門家に伝来し、現在は須坂市所蔵。北信幕領地域の政治・経済・文化・社会の実態把握が可能な文書で、かなで記された遊女の手紙が含まれている。同文書は現在も整理中であり、今回は文書が保管してある倉庫にて一部の文書を閲覧した。

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※次回研究会 2017年5月6日
国立歴史民俗博物館にて第4回研究会開催予定。
テーマ「近世の女性労働を考える」


posted by 日本列島社会の歴史とジェンダー at 14:13| Comment(0) | ニューズレター
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