2017年09月08日

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター5号

気がつけば9月となり、暑さも和らいで参りました。皆様変わらずお過ごしでしょうか。「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第5号では、5月6日(土)に行われた第4回研究会「近世の女性労働を考える」の報告および、7月2日(日)に開催された「国際研究集会 歴史展示におけるジェンダーを問う」と、前日に開催したエクスカーションの報告を掲載いたします。
研究会、研究集会ともに盛会のうちに終えることができました。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
本記事と同内容のPDF版はこちら→日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター5号


第4回研究会 「近世の女性労働を考える」
2017年5月6日 10:30―17:00 (於 国立歴史民俗博物館大会議室)

◆10:30−12:00 資料熟覧                               
国立歴史民俗博物館には、近世、近代にかけての海女の実態、表象を考察する上で重要な資料が所蔵されている。午後の研究報告に備え、メンバーでそれらの資料を熟覧した。

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◆13:00−17:00 研究報告                               
報告1 近世に女商人はいたか?
牧原成征(東京大学大学院人文社会系研究科)


近世に女商人はいたか、という設問はナンセンスに聞こえるかもしれないが、商人の名前帳・仲間帳の類をいくら繰ってみても、女商人の存在はほとんど見えてこないのは事実である。しかし全くいなかったと考えるのも不自然で、女も何らかの形で商売に携わっていただろう。実際、藩政等の記録類では、百姓や町人の妻女が、近隣の市場で立売・振売している様子を示す史料が散見される。それについて管見の史料をいくつか挙げて検討した。
 その上で、盛岡城下の田町(三戸町)の市場の慣行・由来を記した記録を検討した(「御城下市之記」、横川良助「見聞随筆」『岩手史叢第六巻』岩手県文化財愛護協会、1983年、404〜412頁)。この史料は、17世紀末期に、田町の市場の優越的な地位が他の町に脅かされるようになったことを背景・要因として作成されたものである可能性が高く、同町が盛岡の六斎市の起源であり、もともとそれを独占していたとするような虚構を含むものの、全体としては同町の市場の慣習をよく示す、興味深いものである。
たとえば、おそらく町奉行所が足軽を4人、市の警固として派遣しており、2人は市の警備を、2人は市日に他町で見世店を張っていないかを取り締まった。町役人(検断)は、市場の「中見世」(道路中央部)を用益する商人から1人3文の「立余銭」を徴収し、警固衆の賄いに充てた。屋敷所持者は、主として屋敷前の「見世下」とよばれる空間を商人に貸して見世賃を取ったが、その場所割りをめぐってもめごとがおき、品目ごとに商人の「座列」を定めたという。
その「座列」を描いた図が掲載されているが、そこで最も下座・市末に「女町」が配されている。記録の説明に曰く、女たちは、御組(足軽クラス)の手廻り(家族の意)、町方の小さき者の手廻り(家族)が出る。女町は女だけなので理不尽の者もいるだろうと、その警固に(町奉行所の警固衆とは別に)御組の隠居が出て、油・元結・白粉・紅などを商売する。彼らは「立余銭」は出さない。女共の立売からは3文ずつ立余りを取り立てている。
このように「女町」とは、足軽・小前町人層の妻女が「見世下」に売り場を出すことができる区域を指す。市場の「座列」を定めた際に、最も下座・市末に、女だけの売場・座が設けられたのである。ここを警固する足軽の隠居衆は女向けの商売物を売っているが(収益が警固料に相当するということか)、女商人たちは品目によって区別されたわけではなく、性別によって区別・差別され、市末におかれた。ただ、他の区域(座)に女がいなかったわけではなく、荷宿など家族・奉公人を伴う営業もあった。
この史料等を全体として読み解くと、盛岡城下では藩による町割、市立て(市日の調整・強制、見世店の禁止)、制札交付、警固衆派遣の下で、町は御用品調達、品々(相場のことが多い)書き上げを担い、「座列」、見世賃、立余銭による警固衆への振舞等を独自に定めた。城下町ゆえの足軽層の存在・家族形成とその零細性によって、女も商いに出ることが多く、足軽の隠居衆の警固とセットで、「女だけの売場」が町レベルでの秩序(慣習)として顕現(実現)したと考えられるのではないか。
時代を問わず、女性も最寄の市場へ出て商いをすることは多く、中世には京都でも女商人が見出されるが、隔地間の商いには治安面などの制約があった。近世には全国規模で形成された城下町を中心に治安が改善し、市場が集中し、問屋・仲買・小売の分業が進んで、商売(振売・小売・賃仕事)を女でもそれまでよりは容易・安全にできるようになったであろう。ただ、零細で立売に従事することが多く、隔地間ではなお治安の制約があって女の専業的な商人はそもそも少なかった。
また、商人のなかでも特権化・仲間化・公認されるのは収益性の高いものであり、振売などは職分の排他性が弱くそこから排除された。仲間を結ぶ、公認される局面になると、男であることが暗黙の条件になる(女が排除される)ことも多かっただろう。城下町形成期に奉公人など男子労働力が集中し、政策的にその確保が重視されたことも影響を及ぼした。隔地間の移動では女手形が必須とされたことも制約要因になった。
さらにいえば、「兵」=男子戦闘者のみが権力を握り、農=「作人」を支配するという、ジェンダー・バイアスの強い国家体制のなかで、町人・商人の仲間や権利のみが例外として、その影響を受けなかったはずはない。今後、さらに検討してみる必要がある。


報告2 ジェンダーの観点から見る歴史上の海女の生業と表象
塚本明(三重大学人文学部文化学科)

海女とは簡素な道具のみを持ち、素潜りで海底の貝や海藻を取る女性漁業者のことである。日本で最も盛んな鳥羽志摩の海女技術が2017年3月に国の重要無形民俗文化財に指定されるなど、近年日本の海女文化に対する関心が高まってきた。これは2008年頃から始まった、石原義剛・海の博物館館長を中心とする取り組みの成果である。韓国との学術交流や「海女サミット」開催、海女研究会の設立、海女振興協議会の組織化などを進めてきた。塚本はこれらの活動で海女漁を歴史的・文化的に価値付ける役割を負っている。
 男の潜水漁は世界各地で見られるものの、女性の素潜り漁文化は歴史的には日本と韓国済州島にしか存在しない。朝鮮半島では漁業を低く見る傾向が強く、儒教道徳からの女性の社会的位置付けも影響し、流刑の地として虐げられた歴史を持つ済州島にのみ海女漁が存在した。女性の服装や就労制限の厳しいイスラム圏、弱者保護と貴婦人への献身を説く西洋の騎士道文化圏では、海女漁の成り立ちは難しい。女性が外で肌を晒して働く形態について、世界中で日本のみ、タブーが存在しないのではなかろうか。
 潜水による鮑漁は原始社会に遡るが、この段階では男女とも従事していたと考えるのが自然であり、女性中心の漁と認識されるようになるのは8C頃からだと思われる。宮本常一氏が指摘するように、漁業技術の進展に伴い男は遠洋に出漁するようになり、残った女性が磯場の漁業を行う形で分業が進んだ。だが志摩半島では、リアス式海岸を持ち黒潮が蛇行するために遠洋漁業や網漁が十分に発達し得ず、一方で参宮文化に伴う漁獲物需要という社会的要因も相俟って、男女協働の集約的な海女漁が発展する。
 男が舟を操り女が潜る「フナド」は、日本特有の、最も発達した海女漁の形態であるが、『枕草子』286段「うちとくまじきもの」にその様子が詳細に描かれる。清少納言は船上の男を「あさまし」と痛烈に非難するものの、皮下脂肪が厚く寒さへの耐性に優れる女性が潜り、腕力の強い男が舟を操り、浮上する海女を棹などで一気に引き上げるという、身体能力に応じた男女分業なのであった。
 海女は鮑以外に海藻やタコ、エビなど多様な獲物を採るが、季節や天候に応じて農作業や獲物の加工、沈没荷物の引き揚げ、そして山仕事など、小規模で多様ななりわいを営んだ。特に柴薪を確保することは、潜水の前後に体を温めるために必須であった。漁村に生きる女性の働く形態の一つが海女漁であり、専業的な職業ではないのである。
 参宮文化のなかで大量に流通した熨斗鮑は海女達によって製造され、志摩で入札に掛けられ、伊勢の熨斗商人が買い付けに来た。加工・保存することで有利な取引となっている。この点は晒し草に加工して上方商人と大規模な取引をした海藻類も同様である。
 志摩海女は古くから磯留め期間や未熟な海女の修業機会として、房総半島や熊野灘へ出稼ぎに赴いていた。江戸時代後期には中国向けのテングサ需要拡大により広域化するが、明治中期以降には侵略的な国策に基づき、朝鮮半島へ進出するようになる。志摩漁村では当初は自ら船を仕立てて男と共に赴いていたが、次第に九州北部や大阪等の商人に雇われて出漁するようになった。朝鮮海の漁業資源は豊饒で、商人らは莫大な利益を得た。海女が商人に販売する代価は極めて安価だったが、その漁獲量の多さから、多額の収入を得た。
 だが、朝鮮出漁は志摩漁村の生産構造に大きな変容をもたらした。大正年間には、海女を中心に「漁業専業化」と農業を放棄する状況が進行する。養女を取ることによる女性人口の急増も認められる。田畑は荒廃し、加工業等も衰退し、海女は商人に雇われ、鮑を獲るだけの漁業者に化した。なりわいの規模と収入は大きくなったが、生業構造は単純になった。そして朝鮮海での鮑漁は乱獲の影響で間もなく衰退する。出稼ぎ漁は資源管理的な発想を伴わず、乱獲に陥るのは必然である。そしてそれは、本来の海女文化ではない。
 明治末期から大正期にかけて、三重の地元新聞「伊勢新聞」には、志摩では女子の出生が歓迎され、他所から養女を迎えて海女に仕立てること、「男一人を養えない者は女ではない」などとして、稼げない海女は結婚できず、男は怠惰に暮らすことなどが報道されている。近代の聞き取り調査に基づく民俗調査でも強調される志摩の習俗であるが、不自然でいびつな社会構造である。だが、こうした現象は江戸時代の古文書史料からは確認できない。明治後期以降の「漁業専業化」の進行に伴い、新たに生じた現象なのであった。
 海女は古くから万葉集を始め想像のなかで詩歌に詠われ、浮世絵に描かれた。獲物のひとつとしての宝珠と海女とが結び付き、藤原不比等が海女の玉藻に頼み竜宮から宝玉を取り戻したという伝説も、浮世絵の題材になった。そこには妖怪として恐れられた蛸や龍と戦う海女の姿が描かれる。海女は、海中にある竜宮城を知り、異界の生物と戦う「異能」の存在としてイメージされた。
 参宮文化のなかで海女に潜水漁を演じさせる事例があるが、見物される海女は近代以降に多様に展開する。都市の見世物小屋では曲芸を演じ、鯉を掴まえ、銭を乞うという卑俗な形態のショーが栄え、各地で開催された博覧会の海女館は人気のパビリオンとなり、海女漁が行われる漁村で金銭を払って見物することも行われた。御木本幸吉は真珠養殖場でアコヤ貝採取に海女を雇用したが、明治末年に二見浦にて明治天皇皇后相手に実演するなど、要人相手のショーを手掛けた。明治末から大正期に掛けて、観光土産や絵葉書などで海女と真珠が盛んに登場する。このように海女が人気を集めたのは、海を眺望する施設が作られ、海水浴が夏の娯楽として栄えるなど、「海の時代」を迎えたことが背景にある。近代に見世物となった海女は、決してエロチックなショーとしてではなく、海中を自由に泳ぎ回るという特殊な能力を持ち、そして自然界から食料を採って来るという、根元的な「働く」形態であることが魅力となって、人気を集めたのだと考える。



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国際研究集会「歴史展示におけるジェンダーを問う」
2017年7月1日 12:30−17:00 エクスカーション
2017年7月2日 10:00−17:00 国際研究集会(於 国立歴史民俗博物館ガイダンスルーム)

エクスカーション                              
研究集会前日にエクスカーションを開催し、海外からお招きした先生方と共同研究のメンバーで、江戸東京博物館、アミューズ・ミュージアムを訪れました。

◆12:30−14:30 江戸東京博物館 見学
 常設展を見学し、トノムラ氏の発表でも触れられている大名行列に関する展示コーナーや、寺子屋復元における手習師匠の人形の性別についてなど、ジェンダーの観点から再検討すべき課題を探索しながら、見学を行いました。

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◆14:30−15:00 浅草 見学                              
浅草寺、仲見世通り周辺を見学しました。近世の浅草の様相を横山氏が解説し、その遺構を辿りました。

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◆15:00−16:30 アミューズ・ミュージアム 見学
「BORO 美しいボロ布展 〜ボドコ、生命の布〜」を見学しました。田中忠三郎によるボドコのコレクションを中心に展示が構成されており、作品は触れることが可能でした。一般女性の手仕事による美術工芸を展示するというコンセプト、展示方法ともに驚きと学ぶべきことの多い展示でした。

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国際研究集会                         
2日、国際研究集会「歴史展示におけるジェンダーを問う」が開催されました。
本研究発表の予稿集は国立歴史民俗博物館HPでご確認いただけます。
国立歴史民俗博物館HP

◆10:00−10:10 開催趣旨                              
国際研究集会「歴史展示におけるジェンダーを問う」を開催するにあたって
横山 百合子(国立歴史民俗博物館)

2016年度に開始した歴博基盤共同研究「日本列島社会の歴史とジェンダー」では、これまでの研究を通して、博物館における研究・資料収集・展示と、来館者が展示を通して理解する歴史像の両面で、歴史展示に表象されるジェンダーの重要性を確認してきました。
 本研究集会は、このような博物館業務全般にわたるジェンダー視点導入の意義、方法、その成果を国際的視点から検証し、「歴史叙述としての展示」へのジェンダー視点導入の実践的方向性について考えるもので、横山氏から開催趣旨の説明がありました。

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◆10:10−14:40 報告                                 
報告1 アメリカにおけるジェンダー史研究状況と博物館展示
トノムラ ヒトミ(ミシガン大学)

トノムラ氏は、はじめにジェンダー概念の変遷やその複雑性について解説され、博物館展示においてはジェンダー概念を如何に示すか、そして、展示をジェンダーの観点から検討すると何が問題として浮かび上がるのかを、歴史展示に留まらず、自然博物館などの事例も取り上げて提起されました。また、英語圏の歴史叙述において近年注目されている「Intersectionality」の概念についても紹介され、日本史への適用の可能性についても触れられました。

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報告2 博物館の資料収集・展示におけるジェンダー:台湾での経験から  
黃貞燕(國立臺北藝術大學博物館研究所)

黃氏は、台湾で2004年に性別平等教育法が成立して以降の博物館におけるジェンダー研究の現状と、国立台湾歴史博物館におけるパブリック・ヒストリーの研究、資料収集、展示と教育への取り組みについて報告されました。台湾では、大衆に着目したパブリック・ヒストリーによって、博物館におけるジェンダーの課題の捉え直しが行われ、その結果、歴史のなかの女性、あるいは女性の歴史観をどのように記録し、描くか再考を迫られました。その結果、他の博物館とは異なる独自の資料収集と展示が行われることになり、その実例を紹介されました。

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報告3 包摂の歴史―シンガポール国立博物館におけるケース・スタディ―
リー・コー・リン(シンガポール国立博物館前館長)

リー氏は、1984年にシンガポール国立博物館が歴史ギャラリー設置のため大規模修繕を行った際に、大幅な展示変更を実施しました。シンガポールの歴史はイギリス植民地としての建設および独立の時期を起点として語られてきましたが、リー氏たちは新たなジオラマ展示によって、その起点を600年ほど遡ぼらせ、新たな歴史像を提示しました。さらに、歴史は一本の線に沿って作られるものではなく、シンガポールがジェンダーを含む多様性の中で歴史を築いてきたことを訪問者に示すために、ギャラリーの空間構築に工夫を凝らし、訪問者が公式に語られてきた歴史の展示とパーソナルな物語の展示を無意識に行来するよう構成したことを紹介されました。

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報告4 日本の博物館におけるジェンダー表現の課題と展望―歴博展示に触れつつ―
松本直子(日本学術会議連携会員、岡山大学大学院社会文化科学研究科教授)

松本氏は、考古学展示・表象における現代的ジェンダー・バイアスを問題提起されました。当時の性役割やジェンダー間の関係については不明な点が多いにもかかわらず、女性は料理などの家事や土器づくりをしている様子が多く表現されるのに対して、男性はしばしば狩猟や漁労などの活動をしている様子が表現され、現代の特別分業に基づく核家族のステレオタイプが反映されています。今後の博物館には、ヒトの社会・文化の多様性、ひとつの文化における個人の多様性を見据えた復元が求められると提言されました。

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◆15:00−15:20 コメント
コメント1 小島道裕              
コメント2 長志珠絵
それぞれの報告を受けて、小島氏は、歴博第2展示室「中世」における女性を取り上げてこれまでの「女性史」に言及し、長氏は、ジェンダー視点に立った歴史の再解釈の必要性、そしてそれを実践する場としての歴史展示の可能性などについてコメントしました。

◆15:20−16:50 総合討論                             
報告者、コメンテーター、歴博の藤尾慎一郎氏による総合討論が行われました。参加者からも、報告内容や歴博の展示についての質問が寄せられ、活発な議論がなされました。

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◆16:50−17:00 総括                              
本研究集会の振り返りおよび今後の課題提起を久留島典子氏が行い、盛況のうちに閉会しました。
本研究集会の内容は、2018年度に『国立歴史民俗博物館研究報告』等で発表する予定です。



コメント                            
共同研究メンバーの長志珠絵氏、伴瀬明美氏から、本研究集会へのコメントをご寄稿いただきました。以下に掲載いたします。

伴瀬明美(日本学術会議連携会員、東京大学史料編纂所准教授)
国際研究集会「歴史展示におけるジェンダーを問う」は、開催趣旨に始まり、国内外からの四つの報告、それらをふまえての総合討論、総括という構成で行われた。
横山百合子氏による開催趣旨説明は、本研究集会の開催趣旨を明らかにするのみならず、共同研究そのものの意義と目指すところを改めて確認するものでもあると感じた。
一人目の報告者であるトノムラ・ヒトミ氏は、ジェンダー史の展開とその成果を述べるにあたり、まず、大方の日本史研究者にとって難解であるジェンダー概念の誕生の背景と経緯について語源にまで遡って解説し、日本で普及しづらい理由、日本史における「ジェンダー」と「gender」との違いなどを指摘した。第一人者による解説はわかりやすく示唆に富み、熱心にメモをとる参加者が多くみられた。マンチェスター博物館におけるキュレーターたちの挑戦の紹介と共に、本研究集会の冒頭にふさわしい報告であった。
次いで黄貞燕氏から、既に研究・資料収集・展示業務全般にわたりジェンダー視点を導入してきたという台湾の博物館の現状が報告された。驚かされたのは、台湾には「博物館」を冠した研究所が三つもあるということであった。ジェンダー視点の取り入れを促進する重要な要因となったのは、こうした学術的背景のもと博物館学研究の進展に伴いジェンダーに関わる研究も重視されるようになったことに加え、多元的な民族・文化の複合共同体である台湾において社会の包容性と文化の平等性を促進する社会活動の一環としてパブリック・ヒストリーが政府主導で推進され、そのなかで博物館におけるジェンダーの課題の捉えなおしが促されたことだったという。近年新設された国立台湾歴史博物館は、パブリック・ヒストリーを軸とする博物館として位置付けられ、ジェンダーと歴史記録に関する課題への積極的な取り組みが実践されていることが紹介された。博物館学の充実、社会の多様性に対する認識といった日本の現状との差異、はたまた「歴史学」とパブリック・ヒストリーの緊張関係など、多くの興味深い論点が示された報告であった。
リー・コー・リン氏によるシンガポール国立博物館におけるケーススタディを中心とした報告もまた刺激的なものだった。リー氏は同館館長(当時)として、標準歴史教科書に即していたシンガポール史の展示をわずか三年の間に一新した。従来、シンガポールの歴史はイギリス植民地としての建設および独立の時期を起点として語られてきたが、リー氏達はその起点を600年ほど遡ぼらせることで、はるかに豊かな歴史像を提示したのみならず、様々な切り口・視点によることで歴史はさらに深く理解できるということを精選されたコンテンツによって実現したのである。こうした試みは―伝統的歴史観を好む人々からの批判も含め―非常に大きな反響を呼んだという。ナショナルミュージアムにおいてかくもチャレンジングでダイナミックな転換が短期間で成し遂げられたということには驚嘆以外の言葉がない。
 最後に共同研究員でもある松本直子氏が、日本の博物館の考古学的表象におけるジェンダー表現の課題を報告した。復元展示におけるジェンダー表現の偏向はいまだ大きい(たとえばステレオタイプな核家族の復元イメージが多いなど)にもかかわらず、それを指したる違和感なく「復元」として見ていた自分を省みるに、復元画やジオラマのような視覚的表象は影響が大きいという指摘に首肯せざるをえず、現代の性役割が過去の社会像に投影され、それによる「復元」が現代のジェンダー不均衡を阻む要因となっていることを痛感した。性役割を考古学的に明らかにするのは容易ではなく不明な点が多いが、だからといって(だからこそ)そこを安易に現代的ジェンダーによって埋めてはいけない、という松本氏の見解は、復元展示に関わる人々に共有されるべきものではないだろうか。
総合討論での活発で直截な意見交換ののち、久留島典子氏によって総括が行われたが、そこで強く印象に残ったのは「どこまで明らかにできていてどこまでがわからないのかの明確化を担保にして、できる限り展示に生かしていくことが学問的な前進をも生む」という言葉(大意)である。これは、総合討論に通底していた「展示はいかにあるべきか」という難題に挑むにあたり、重要な手がかりとなるように思われる。
今回の国際研究集会は、スタートして2年目に入った本共同研究が新たな段階へ踏み出すための確かな足掛かりになったと感じている。わたくし個人としても、視野を広げ、研究テーマへの理解を深める貴重な機会となった。
なお、本研究集会前日には国外からの報告者を迎えてエクスカーションが企画され、江戸東京博物館を振り出しに、浅草では観光客でごった返す雷門(残念ながら修補中)・仲見世・浅草寺境内をそぞろ歩きながら、横山百合子氏から浅草寺界隈の近世から近代にかけての変化、今に残る痕跡などについての解説をいただいた。その後、布文化と浮世絵の美術館として開館したアミューズ・ミュージアムへ移動、過酷な環境で命をつなぐため繕いを重ねつつ次代に伝えられていった「ボロ」の特別展を見学し、同館屋上からの浅草一帯の眺めを楽しんだ。翌日の国際研究集会と併せ、たいへん有意義な二日間であった。


長志珠絵(日本学術会議連携会員、神戸大学大学院国際文化学研究科教授)
今回の魅力的な国際シンポジウム「歴史展示におけるジェンダーを問う」では、海外から3人、国内から1人の報告者を招き、極めて興味深い議論が展開された。が、事前に予稿集を拝読したことで私はコメンテーターとしてというよりは、歴史研究を専門とし、他方で歴史教科書や一般教養としての歴史教育に関心を持ってきた文献研究者として逆に問いの空白に改めて気づき驚いた。端的にいえばそれは、なぜ「日本史」の歴史展示の課題としてジェンダーは論じられてこなかったのか?という問題である。
 ともあれまず共有される論点の一つは、歴史の実践としての歴史展示がどういう状況にあるのか、何が課題になるのか、どのように意識されているのか、この点だろう。たとえばトノムラ・黄・リーの3報告ではジェンダー射程をふまえたインターセクショナリティや多元性の重要性がそれぞれの歴史展示の実践によって強調された。
 シンポジウムの報告はまず出発点として、歴史展示を可能とする知の集積のあり方そのものがいかにジェンダーバイヤスにとらわれているのか、この点を問うた。トノムラヒトミ「アメリカにおけるジェンダー史研究状況と博物館展示」は、今日のキュレーターによる調査と実践によって、19世紀半ば、近代国民国家による自然史博物館がすでに収集物段階でオスを中心とするカルチャーにあり、剥製による展示物の体系や学術用語もジェンダーブラインドな体系を前提としてきたことなどの論証と意識化、これらへの対抗展示などの実践を紹介する刺激的な問題提起から始まった。 
 他方、新しい展示はどこに向かうのか。台湾とシンガポールでの国立博物館での2000年代での歴史展示の実践報告を行った2報告では、歴史展示に対する今日の社会の側のニーズをどのようにとらえ、応えるのか。またその社会的な需要に対する国家の側の支援がどうあるべきか、この点が極めて自覚的・意識的であることが痛烈に印象に残った。
 例えば黄貞燕「博物館の資料収集・展示におけるジェンダー:台湾での経験から」報告では、パブリックヒストリーを形作る重要な要素としてジェンダーが課題とされるとともに、何を収集するのか、この点でも意識的に、歴史の主体としての「大衆の歴史」や「生活」、一般の人々による「歴史を語る」こと、さらには取材のあり方そのものが収集の対象であり、そのための展示空間にも工夫を凝らすとする。その背後にはジェンダー課題が台湾先住民も含めての多元的な民族や文化との関係でとらえられるとともに、1990年代以降での「新台湾の子」としての社会のニーズとしての歴史アイデンティティ構築の要請がある。単線的な歴史の語りではなく、いかに「ひとびと」の多様性を広げていくのか、追体験も含めた歴史展示を前提とした新しい国民史の語りの姿をここに見出すとすれば、同様の論点は、リー・コー・リン「包摂の歴史―シンガポール国立博物館におけるケース・スタディ 2006-2015」報告に一層明確だ。ここでも「暮らし」に焦点をあてた、「公式の物語」と「もう一つの物語」への前景化が意識されるとともに、アーカイヴ資料としての声や動画を多用した観る側の感情を喚起する歴史展示のあり方、日本占領時代を「自転車展示」に象徴させる表現、特に労働者階級の移民女性を出身による装いの違いで表現し、アイデンティティとしての歴史をたぐりよせるための展示を試みるなど、空間構成も含め、現代史展示をめぐる多様な研究成果が駆使されている。同時に、従来の、19世紀初頭を軸とした植民地史の一部ではない新たなシンガポール史が、神話の時代も含め、12世紀から展開されるという。が、同時に2つの国立博物館による新たな歴史展示の試みは意識的な「国民の物語」の創出でもある。新たな包摂の軸に「歴史を語るうえでのジェンダーの意義は、女性に関心を払うだけではなく、立場、価値観と方法に制約された過去の歴史記録を見直し、再解釈の可能性を探ることにある」(黄)とするジェンダー射程の広がりにまずは可能性をみたい。 
 その際、後2報告が共有する、見る側が自分のものとして感じられる歴史・歴史展示という課題をどう考えるべきだろうか。この論点は歴史実践としての歴史展示がどのような位置あるのか、という問題と関わっている。
 この点でたとえば日本史の学会誌は<新自由主義時代の歴史展示>といった特集が度々組まれるなど、博物館の歴史展示や体制そのものへのバッシングへの対抗的な議論を蓄積させてきた。他方で同じく社会との関係が問われる教科書問題や歴史教科書をめぐる対抗文化の構築にあって、特に歴史の実践として歴史教育を考える際、ジェンダー射程をふまえることは、学習者を歴史の主体として育み、エンパワーメントするために必要な試みとして議論が積み重ねられている。教科書叙述にも変化の兆しはあり、1925年の普通選挙の表記は(本土と入れるべきだが)「男子普通選挙」へ、「学び舎」の中学校教科書のようなジェンダー射程に意識的な教科書も登場した。学界の発信はどうか、という点でも、「慰安婦」問題に象徴されるように、ジェンダー射程は、横山報告が指摘されたような、研究者個々人の政治性にふれる、というナーバスな側面の一方、特に歴史修正主義者との対決を迫られる主題については、歴史研究者としての職業倫理がまさる、という側面も持つ場合がある、と考える。 
 とすればジェンダーは、なぜ「日本史」の歴史展示の課題になってこなかったのか?歴史展示にとってジェンダー視点がいかに必要かつ有効か、という論点については議論されてこなかったものの、この点は改めて興味深い論点であり、歴史教科書をめぐる議論や実践それらへの蓄積と比較して論じる必要があると思う。強調しておくべきは、教科書も歴史展示もわかりやすさを求めるとともに、啓蒙的視線によって、古いジェンダー意識が入り込み、再生産する、あるいは意識的に強化することもできる強力な歴史メディアであり、歴史研究に関わる側はこの点を十分に意識すべき段階にある、という点だろう。 
 では歴史展示にジェンダー視点が欠けることで何が問題なのか。この解の一つを最後に松本報告の議論にみておきたい。
 松本直子報告「日本の博物館におけるジェンダー表現の課題と展望―歴博の考古学展示に触れつつ」は、歴博も含め、広く国内外の考古学展示のなかでの具体例に沿って、特に復元展示や復元画像の持つ問題性が極めて具体的に提起された。食事の支度をめぐる研究成果と乖離する描写、あぐらと正座との対比など、復元展示の持つ、固定的なジェンダーメッセージの危険性について、様々な角度から警鐘を鳴らす刺激的な報告だった。また量的なバランスにも言及があり、歴博展示のなかで様々な男性像がえがかれていることとは研究成果の反映である一方、画一化された女性像の提示は、今回の各パネリストが新しい歴史展示として強調していた、歴史主体としての多様性の確保という点で大いに課題を含むものだろう。議論の中でも指摘があったように、歴史修正主義者もしばしば用いるアニメキャラクターという表象レベル、市民向けの宣伝レベルの文言や文字表象に至ってもぜひ吟味いただきたいと思う。
 分かりやすさ、という一見、観る側に沿ったかのような物言いはしかし、何らかの調査を踏まえたものでない以上、社会の側の世界水準からかなり隔たった悪しきジェンダーを強化することにつながりひいては、研究の側の実証水準を消費され、変容させられる危険性を持つ。コメントの際には、「伝統」という語りの持つジェンダーブラインドの濫用事例として、世界遺産認定された熊野古道の大峰山女人禁制をあげてみた。性別による明確な差別が「伝統」の名のもとに、かつ世界的な権威付けによって後押しされながら、今日存在することの負の意味が問われるべき重要な事例であり、国立博物館の歴史展示はこうした「過去の現在」が喚起する問題群に意欲的であってほしい。歴史を表現する営み全体のなかでの、専門知としての歴史学―のなかの歴史展示という歴史実践がどうあるのか、その際、ジェンダー射程と歴史展示という課題は最も重要なテーマの一つであり、国立の歴史民俗博物館とはそうした課題を内外に示す位置にある、この点を改めて認識したシンポジウムであった。

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2017年04月11日

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター4号

例年よりも春の訪れが遅く感じられた今日この頃ですが、新年度のはじまりで皆様お忙しくお過ごしのことと存じます。「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第4号では、過日行われた第3回研究会の報告を掲載いたします。
本研究会も2年目を迎えましたが、今年度は国際研究集会の開催を予定しております。今後もこちらから随時お知らせ等お送りいたしますので、引き続きよろしくお願い申し上げます。
本記事と同内容のPDF版はこちら→日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター4号

見学会報告
第3回研究会は長野県にて開催され、初日が研究報告会、2日目が中野市・須坂市巡見、3日目には有志で須坂市の坂本家文書調査を実施いたしました。概要および報告要旨は以下の通りです。

歴博基盤共同研究「日本列島社会の歴史とジェンダー」第3回研究会
2017年3月18日(土)−3月20日(月・祝) 

◆3月18日(土) 13:00−16:50 於:長野県須坂市上高井郡旧郡役所 

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報告1 殯宮儀礼の主宰と大后−女帝の成立過程を考える−
仁藤敦史(国立歴史民俗博物館)

 昨年の8月8日にマスコミに対して公開された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」には、「これまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては,重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、1年間続きます」との発言があった。ここには古代以来の長期に行われた「殯」という、埋葬までにおこなわれる種々の葬儀儀礼についての言及がなされている。殯とは、死者の復活を願いながらも、遺体の変化を確認することで最終的な死を確認するという両義的な儀礼であった。しかし、3世紀の「魏志倭人伝」の記述では10日程度の期間であったとする葬儀が、7世紀の『隋書』倭国伝では、一般的な葬儀と区別されて、支配層は3年のモガリを行ったとあるように、長期化していることが確認される。おそらく渡来人の喪葬儀礼の導入によりモガリが整備され、長期化して「殯」と表現されるようになったと考えられる。やがて、モガリは特権的な儀礼として神聖化され、この期間中に合意形成により後継者を決定するということが一般化し、皇位継承と深い関係を有するようになった。盛大なモガリ儀礼を首尾よく終えることが政争の回避に重要な意味を持つようになったのである。
 本報告の目的は、古代における殯宮儀礼の主宰者と考えられるオオキサキ(大后)の役割を解明し、女帝即位への道筋を考えることにある。
 殯宮の儀礼については、和田萃氏が1969年に発表された「殯の基礎的考察」という論考が通説的位置を占めている。和田氏による論点は多岐に渡るが、巫女的な「中継ぎ」女帝即位に連続する「忌み籠もる女性のイメージ」を前提に、内外に二分された殯宮のあり方を提起している。すなわち、殯宮内部での儀礼と殯宮が営まれている殯庭での儀礼に二分されること、前者はおそらくは女性に限られた血縁者や女官・遊部らによる私的な奉仕儀礼であり、後者は王権内部での殯庭での公的儀礼と位置付けられている。天武の殯宮には鸕野皇后が籠もり、草壁は喪主として公的儀礼に供奉したと対比的に位置付けるように、殯の全期間に籠もる女性を強調する点が特色となっている。女帝即位との関係は皇位継承の争いを避け、これを鎮める便法とされるように、井上光貞や折口信夫以来の巫女的な「中継ぎ」女帝論を前提に論じられている。殯宮の二分法的な理解については、河原での儀礼との連続性の観点や、喪屋(殯大殿)と殯庭(誄)が門(兵衛)と垣で囲われる一体的な構造からは、成立しにくいことを指摘した。
 近年、稲田奈津子氏は、こうした通説的な和田説に対して、殯宮に籠もった皇后に先帝の天皇権力が委譲されるという、いわゆる「忌み籠もる女性イメージ」に対して疑問を提起された。本報告では、この和田説批判における「忌み籠もる女性」という論点を全面的に肯定しつつも、元キサキによる「殯宮の主宰」という論点については、女帝即位に連続する権力的な分析に依拠すれば、異なる意味付けにより継承できるとした(なお、モガリの主宰は前王の近親者が務めたと想定され、斉明死去時の中大兄のように必ずしも女性に限定されないが、その機会は多かった。当然ながら、通説のようにモガリの宮に常時籠もる必要はない)。
 主要な根拠としては、第一に大王の在位中においては、キサキとしての輔政・共治は顕著に認められないこと(たとえば、持統のキサキとしての執政実績の強調は、『漢書』『後漢書』皇后紀による潤色であり、明確な根拠とはならない)。第二に、推古没後の混乱において「葬礼畢りぬ。嗣位未だ定まらず」(舒明即位前紀推古三六年九月条)とあることからすれば、通常はモガリの終了までに皇位継承者が決定していたと推測され、実例においてもモガリの最終段階での誄による日継の奏上(嗣位の決定)がなされていたこと(持統二年十一月乙丑条)。反対に用明天皇は「諒闇に居すと雖も、勤めざるべからず」という状況のため「即位と称せず」(『伝曆』)と評されたように殯終了以前の即位は正式な即位とはされていない。第三に、『日本書紀』編者の意識として「空位は一日だに空しかるべからず」(仁徳即位前紀)という認識があるにもかかわらず、モガリ期間のみの権力行使は「称制」などとは表現されないことが指摘できる。すなわち、モガリ期間における、元キサキによる行為は、「空位」とは認識されない慣習的かつ制度的な大王代行であったことになる。少なくともモガリ終了後も即位しなかった長期の「空位」事例のみを「称制」と称している。第四に、正史において女帝の即位について立太子記事が孝謙即位を例外として見えないが、日継の誄により認定される男性のミコに対して、女帝はすでに「モガリの主催」により権力的な認定がされていることが一つの要因として考えられる(皇統譜意識において母たるミオヤとしての即位であったことが別な要因としては指摘できる)。第五に、殯期間を中心とした空位時において、元キサキによる人格的権威を前提とした「宣・告・命」とも表現される口勅が多数発出されていること。これは殯宮においては生前と同じような群臣による奉仕関係が長期に継続することが背景にある。殯期間における殯宮の主宰者は前王と権力的に一体化した大王の代理的存在であった。第六に、中国における類似な事例として、漢の呂太后は宗廟社稷を奉じる存在であることから、次の帝位を定める資格があったことが指摘されている。これは、帝位を継ぐことにより血縁にない先帝との間に父子関係が発生し、それが母子関係にも及ぶことが前提にある。
 以上のような根拠により、女帝出現の背景として、モガリの期間中に元キサキが大きな政治的役割を果たしており、それは前王の近親者としてモガリを主宰したことに求めるのが妥当と判断した。




報告2 セクシュアリティ発現の〈場〉としての遊女屋
辻浩和(川村学園女子大学文学部史学科)


報告者は、『中世の〈遊女〉生業と身分』(京都大学学術出版会、2017)において、13世紀後半頃における「遊女」の変容を論じ、芸能性の減退と売春性の前面化、都市における遊女屋の増加などを指摘した。これを受け、本報告では、13世紀後半以後、遊女と客との接触態様がどのように変化するのかについて、〈場〉としての遊女屋に着目しながら論じた。
 まず、売春性の前面化によって、「遊女」への評価基準は容色を中心とする視覚的なものに変化した。これに伴い、遊女屋の入口では遊女を視覚的に評価・値踏みし、直接交渉を行うようになっていったと考えられる。16世紀から17世紀にかけての史料では、絵画史料・文献史料ともに、遊女屋の戸の脇から身を乗り出して客の袖を捉える「遊女」の姿が描かれている。こうした交渉の姿が、遊女の典型的なイメージになっていたと考えられる。
 次に、13世紀以降の「遊女」史料では、酒宴や酌に関する記述が増加する。お酌は12世紀後半以降の私的空間拡大に伴って増加したと考えられるが、歌謡や芸能への関心低下によって、酌への関心が表に出てきたものであろう。酒宴の場では「思ひ差し」などによって特定の遊女を選ぶことが行われており、「遊女」と客との関係は、芸能における一対多数の関係から、一対一の個的な関係へと変容していることがうかがわれる。
 こうした関係の変容を受けて、「遊女」をめぐる喧嘩や殺人の史料が見えるようになってくる。さらに15世紀後半以降は、誘拐・人身売買による「遊女」の補充が行われるようになり、遊女屋は物騒な場になっていくようである。遊女屋と博奕を共に取り締まる法令がたくさん残されていることは、こうした治安上の不安から遊女屋が忌避されていく様子を示しており、奈良で遊女屋の破却が頻繁に行われていることも、おそらく秩序維持と関わるものと考えられる。従来の研究では、遊女屋の忌避と、「遊女」の特殊視とは、連動して戦国時代に起こった動きと考えられてきたが、遊女屋の忌避が13世紀後半以降見られることを踏まえれば、両者は別個の動きとして見ていく必要があると思う。
 以上の3点を指摘して、中世後期における遊女屋の変容と、近世遊女への展開を大まかに見通した。

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◆3月19日(日)
2日目は以下の通り中野市内・須坂市内の巡見を行いました。

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▼中野市立(仮称)山田家資料館
 山田庄左衛門家は近世初期からこの地に土着していた豪農で、酒造業や金貸、地主経営等で利益を上げるとともに、地主として同地で頻発する千曲川とその支流の水害対策に当たり、明治4年には千曲川瀬直し工事を完了させている。また、明治3年、信濃の世直し一揆の中では最も苛烈であったという中野騒動の際には、当時の商社人筆頭ということで屋敷の打ち壊しに遭った。現在、約1200坪の土地・江戸後期から明治に建てられた土蔵群を含む建造物・資料は中野市に寄贈され資料館として希望者に公開されている。移動のタクシーを降りた大ケヤキの位置から資料館入口である裏門までかなりの距離があり、屋敷地の大きさを実感した。この日は展示室や広大な土蔵群を見学させていただいた後、山田家文書を閲覧。閲覧資料は幕末維新期、山田家が江戸の新吉原の遊女屋経営に投資を行っていたことに関わる文書と、同じく幕末期に江戸から当時隠居の山田隼人(八代目庄左右衛門)の元に14歳で妾奉公にやってきた岩井貞子の関連資料である。「妾奉公」とは言っても、その実貞子は隼人死去後も剃髪して信濃に残り、自身の教養を活かして山田家の子女の教育にあたるとともに、地域の人々に和歌や書、裁縫を教え、山田家との繋がりも継続していたといい、その生涯には興味深いものがあった。

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山田家の鬼門に位置する大ケヤキ

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広大な屋敷地の西側の一角を囲む土蔵の白壁

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山田家文書閲覧の様子。遊女屋経営への投資に関わる文書は柿渋を塗った包装紙(写真右)や着物を包むたとう紙に再利用されたことにより残された。


▼中野陣屋県庁記念館
 近世には中野陣屋、明治初期には中野県庁が置かれていた場所で、現在はコミュニティホールやギャラリーとして活用されている。開催中であった「中野土人形 市川一生コレクション」展を見学。


▼豪商の館 田中家博物館
 田中家は穀物や煙草、酒蔵業等を営み、代々須坂藩の御用達を勤め名字帯刀を許されるとともに、幕末期には藩財政にも関わった豪商・大地主である。土蔵を改装した展示室では企画展「おんなの節句 田中本家の雛人形ときものと」が開催されており、同家の富裕さをうかがわせるずらりと並んだ雛人形や、色鮮やかな着物を見ることができた。

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その後天明期に作庭された池泉回遊式庭園をはじめとした四つの庭園や主家といった建物群を見学。廻遊式庭園は小山まで設えてある見事さで、桜も紅葉も時期外れではあったが、須坂藩主がこの庭を気に入り度々お忍びで訪ねて来ていたというのも頷けるものだった。

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回遊式庭園(大庭)

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須坂藩主がここからお忍びで訪ねてきたという「お忍びの門」


▼須坂市文書倉庫にて坂本家文書閲覧
 山田家と並ぶ豪農、坂本幸右衛門家に伝来し、現在は須坂市所蔵。北信幕領地域の政治・経済・文化・社会の実態把握が可能な文書で、かなで記された遊女の手紙が含まれている。同文書は現在も整理中であり、今回は文書が保管してある倉庫にて一部の文書を閲覧した。

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※次回研究会 2017年5月6日
国立歴史民俗博物館にて第4回研究会開催予定。
テーマ「近世の女性労働を考える」


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日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター3号

「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第3号をお届けいたします。
ご報告が遅くなりましたが、今回は2016年11月3日(木・祝)に佐倉市の西福寺で行われた「坂戸の念仏 大十夜」見学会についてご報告いたします。
本記事と同内容のPDF版はこちら→日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター3号

見学報告

西福寺 坂戸の念仏 大十夜見学会
2016年11月3日(木・祝)
於:佐倉市坂戸 西福寺〜念仏塚

◆西福寺大十夜とは
 千葉県佐倉市坂戸の西福寺は応安年間(1368−75)に良栄上人、千葉定胤によって開かれた浄土宗寺院。坂戸地区の隠居身分の女性たちで作られた念仏講に伝わる念仏踊りが「坂戸の念仏」で、「大十夜」では33年に1度、宗派に関係なく近隣の人々が西福寺からおよそ1.2キロ離れた念仏供養塚までの道のりをゆっくりと練り歩き、塚の周りで念仏踊りを披露する。大十夜は明治15年(1885)、大正9年(1920)、昭和30年(1955)、同58年と行われており、昭和55年に千葉県無形民俗文化財の指定を受けている。

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◆西福寺 大十夜タイムテーブル
 西福寺境内 9:00  開会
       9:30  念仏踊り奉納
       10:00  本堂前法要

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西福寺境内での2曲の念仏踊り「ささえだ」「朝顔」の様子


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西福寺から念仏供養塚まで行列

念仏供養塚到着 13:10 開山忌法要
        13:30 念仏踊り奉納
        14:15 式典
        14:45 餅投げ
        15:00 閉会

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小高い念仏塚。置かれているのは良栄上人座像。

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念仏塚前での扇を使った「朝顔」

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合掌で一連の動作が終わる「しもつけ」


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2016年11月18日

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター2号

 季節外れの暑さが続いたかと思えば急に秋めいて、ようやく木々も色付いて参りました。皆様いかがお過ごしでしょうか。「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第2号をお届けいたします。本号では、9月24日(土)、25日(日)に開催されました、第2回研究会について報告いたします。
本記事と同内容のPDF版はこちら→日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター2号


研究会報告
 第2回研究会は「文字・文体とジェンダー」をテーマに、2日間で4名の方からいずれもチャレンジングなご発表をいただきました。2日間の概要および発表要旨は以下の通りです。

歴博基盤共同研究「日本列島社会の歴史とジェンダー」第2回研究会
テーマ:文字・文体とジェンダー
2016年9月24日(土)−25日(日)
於:国立歴史民俗博物館 第1会議室、大会議室

◆9月24日(土) 13:00−17:00 
 初日となる24日は、三上喜孝氏、福田千鶴氏からのご報告をいただき、活発な議論が交わされました。
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報告1 古代の文字文化とジェンダー
三上喜孝(国立歴史民俗博物館)

 古代における文字とジェンダーの問題を考える際に、その点を強く意識した先行研究としてまずあげられるのは、関口裕子「平安時代の男女による文字(文体)使い分けの歴史的前提 −九世紀の文書の署名を手がかりに−」(笹山晴生先生還暦記念会編『日本律令制論集 下巻』吉川弘文館、1993年)であろう。関口裕子氏は、男=漢字(漢文)=公、女=仮名(和文)=私という、男女による文字・文体の使いわけが、具体的にどのような歴史的過程を経て十世紀に定着したのかを考察する一助として、時期的にそれに先行する8、9世紀での文字使用のあり方を、文書の署名にみられる男女観の相違を手がかりに検討した。具体的には、9世紀の土地売券にみえる男女の署名の違い(自署か、他署か、画指か)に注目したのである。とくに画指は、人差し指の関節の位置と長さを自署の代わりに示したもので、文字を解さない人間に対しておこなわれた署名方法であるといわれている。
 関口氏は、9世紀の土地売券に残されている画指のほとんどが女性によるものことを指摘する一方で、画指をしているからといってその女性が漢字を書けないとはいえないと論じた。女性の自署が不可欠でなかったのは、漢字の書き手は原則として男であるという社会意識の成立を意味し、それが後の男=公=漢字、女=私=平仮名という規範の成立につながったとしたのである。
この関口氏の見通しは、今もなお有効と考えられるものの、漢字=男手、平仮名=女手と認識されていく状況を、「文字の使用に性差別が刻印されるという世界史的にもまれな状況が見られる」と指摘している点は検討を要する。とりわけ「画指」は中国で生まれ、東アジアに広まっていった規範であり、東アジア的な規範の中で「画指」をとらえる必要があると考える。
 中国・唐代における画指については、法制史学者である仁井田陞が事例を収集し、考証している(仁井田陞『唐宋法律文書の研究』東京大学出版会、1937年)。それによると、画指の語は中国では遅くとも北魏の時代にはすでにあらわれており、唐代にもその語が用いられていた。画指は主に、売買文書や借銭文書、借粟文書など、契約にかかわる文書にみられるが、これは、さまざまな契約には自署が必要であり、それと同様に、文字の書けない人々は画指を用いたからである。画指は唐の後、宋・元の時代になっても行われた。
 画指は、東アジア各地に広まっていった。朝鮮半島では、朝鮮王朝時代に画指が行われていたことが確認されている。仁井田陞によれば、指の大きさが長方形で表され、その中に、男性の場合は「左寸」、女性の場合は「右寸」と記され、さらに関節の位置が記されたものであって、仁井田陞のいう「指形式」の画指である。
 さらに仁井田陞は、ベトナムでも画指が行われていたことを紹介している。その様式は原則として、男性は左手、女性は右手の指の関節を、点で表記するもので、仁井田のいう「点式」の画指である。このほか仁井田陞は、唐末から宋代にかけて中国北西部に存在した、西夏においても、文書に画指が利用されていた事例を紹介している。
 こうしてみると、画指は、東アジアに伝播した漢字文化と同様の広まりを見せていたことがわかる。
 さらに画指を細かく見ていくと、7世紀前半(高昌国時代)のトルファン文書には、文末に「各自署名為信」とあり、署名部分に画指が書かれ、「不解書、指節為明証」と傍書されている例がしばしば見られる。これは、自署を前提とし、「不解書」の人物が画指を自署の代わりとするという規範が存在していたことを意味する。
 だが7世紀後半(唐代)以降のトルファン文書では、やや異なった傾向が見られる。文書の文末に「画指為信」「画指為験」「画指為記」とあり、署名部分には3点式の画指が多用されるようになる。とくに「挙銭契」「挙麦契」などにおいて「挙銭人」「保人」「知見人」が画指を用いている例が多い。画指が、必ずしも「不解書」の代替としておこなわれるものではなく、当初から本人特定の手段として用いられた可能性をうかがわせる。
 このほか、裁判の訴状や訊問書、団保文書など、本人特定がことさらに重要であることが想定される文書に画指が使用されており、画指が身体性と深く関わって使用されるようになったことがわかる。
 このようにみてくると、画指は、たんに「不解書」の代替としておこなわれたものではなく、古文書の特定の様式や規範にかなり制約されておこなわれていた可能性がある。
 たとえば朝鮮半島では、朝鮮時代の古文書の中に画指が確認できるものが膨大に残っている。その一つが、土地の売買の際に作成された「土地文記」という文書である。
 崔承熙『増補版 韓国古文書研究』知識産業社、1989によれば、財主・証人・筆執は姓名と花押(手決)をするが、身分が賤民である場合には手寸(奴…左手寸)手掌(婢…掌押、掌形または右手寸)をすることになっており、財主が士大夫の家の婦人である場合は押印をした。
 そもそも両班の家で土地を売買する場合には「某宅奴某」の名義で売渡・買収する。両班は売物があっても直接売買に関係せず家奴に牌旨(牌子)を与え、形式上、売渡することを委任して、牌旨を受け取った奴は、売買契約書(文記)を作成して、牌旨と旧文記を一緒に買受人に引き渡して、売物価を引き受けるのである。したがって、土地文記の署名部分のほとんどには、名義人となった奴婢の手寸(画指)がある。これらの画指は、奴婢が文字を解するか否かにかかわらずおこなわれたのである。
 男性の画指を左手、女性の画指を右手とする規範も、中国に端を発する規範を踏襲しているものである。
 古文書にみえる「画指」は、東アジア世界において地域的・時間的に広がりを持つ規範であり、日本列島社会の固有の問題としてだけではとらえられないことに留意すべきである。このことは、漢字と仮名の関係についても、「文字の使用に性差別が刻印されるという世界史的にもまれな状況」ととらえるのではなく、少なくとも東アジアレベルで文字とジェンダーの問題を考えていかなければならないことを示している。



報告2 近世女筆学の構築に向けて
福田千鶴(九州大学)

はじめに

 本報告では、これまで報告者が進めてきた近世奥向研究を振り返り、近世女筆学の構築に向けてのささやかな提言をおこないたい。
 報告者は、平成11年度から同14年度にかけて「大名家文書の構造と機能に関する基盤的研究―津軽家文書の分析を中心に―」(文部科学省科学研究費補助金基盤研究C2)を進める過程で、大名家文書の成り立ちを解明するためには奥向史料論が必要であると考えるにいたった。そこで、平成16年度から同19年にかけて、「近世武家社会における奥向史料に関する基盤的研究」(同基盤研究C)という研究で奥向史料の所在調査をおこなった。その結果、当初に想定していた以上に奥向関係史料が伝来していることの確証を得た。これをふまえ、平成21年度〜同23年度にかけては「日本近世武家社会における奥向構造に関する基礎的研究」(同基盤研究C)を進め、奥向研究の基礎整備として「女中奉行日記」(鳥取県立博物館池田家資料)・「女中奉公人請状」(国文学研究資料館信濃松代真田家文書)を翻刻紹介し、来見田博基編「鳥取藩御女中一覧表」を公表した。ただし、これらは奥向の史料であるとはいえ、基本的には中奥の史料であり、奥で作成・授受・保管された史料の伝存は極めて限定的であり、しかもその大部分は近世後期の日記類である(1)
 また、豊後府内藩の『大奥日記』(京都大学総合博物館蔵)は、その表題から明らかに江戸の府内藩邸における奥日記であるが、奥付の男性役人によって記された男手の日記である。つまり、奥の機能に関わって作成・伝存した限られた記録のなかにあっても、女が書いた文字というのは極めて限定されていることがわかる。つまり、奥向史料とされるものの大部分は、男が書いた文字によって記録されているといわざるをえないのである。
 では、江戸時代の女は文字を書かなかったのか。その答えは否である。女手による奥の記録の数は少ないが、伝在していないわけではない。たとえば、『女儀日記』(山口県文書館毛利家文庫)がある。文久3年2月9日から明治26年3月31日まで31冊が伝来している。これは、萩城の梅御殿に居住した毛利敬親夫人妙好付の右筆だった真砂が書いた日記であり、女手で書かれた稀少な奥日記であるといえよう(2)
 また、何よりも「女筆消息」と呼ばれる一群の史料が伝来する。16世紀末以降には、女性自身が書いた書状が多く残されている。よって、女手による限られた記録史料の一方で、これら豊富な女筆消息を分析することは喫緊の研究課題として浮上することになったといえよう(3)
 以下、本報告はジェンダー史の観点からの報告にはなりえていないが、近世女筆学構築の重要性を提起することで、女筆研究とジェンダー史をつなぐ橋桁の一つにでもなればと考えている。

1.定式化された女筆手本類

 一般に、仮名文字は古代の貴族によって使用が始まり、中世には武家の女性によっても使用されるようになり、近世の「女筆手本」の出版が女子教育の教科書的役割をはたし、広く社会に普及したとされる。つまり、女筆とは、「女の文字」とされる仮名文字で書かれた筆跡ということができ、男が仮名を用いた場合も女筆の範疇に含めることができよう。
 その一方で、仮名文字で書かれた書状を「女筆消息」と呼ぶ例がある。つまり、「女筆」には「女筆」特有の書法(散らし書き・撥ね文字・文体・料紙の用い方・名前の書き方等)が備わねばならなかった。すなわち、これらの要件を備えて書かれたものを狭義の「女筆」ということができよう。
 17世紀に入り出版文化が開花するなかで、女性教訓書や女子用往来物が数多く出版されるようになる。これら女筆手本類(4)が果した役割については、教育史やジェンダー史の観点からの研究蓄積がある。小泉吉永『女筆手本解題』(日本書誌学大系80、青裳堂書店、1998年)、中野節子『考える女たち―仮名草子から「女大学」』(大空社、2007年)、天野晴子『女子消息型往来に関する研究―江戸時代における女子教育史の一環として―』(風間書房、2008年)が代表的なものであり、2009年には民衆史研究会が女筆手本を大会テーマとし、『特集・書物からみる近世女性の「知」』(『民衆史研究』79、2010年)としてまとめられ、勝又基「近世前期における仮名教訓書の執筆・出版と女性」、小泉吉永「女筆の時代と女性たち」、中野節子「民衆史研究会二〇〇九年度大会シンポジウムコメント」が載せられ、研究の進展をみた。
 そこでの議論は多岐にわたるが、本報告との関連では、17世紀後半から18世紀前半にかけて女筆手本類の出版が続出し、「女筆の時代」というべき女筆の隆盛をみ、その過程では「女らしさ」が求められ、居初津奈が「おとこことばをはふみにはかくへからず」(『女文章鑑』1688年)、春奈須磨が「女筆におほくおとこもしをかきましへたるもにくげなり」(『女用文章唐錦』1735年)と書いたように、男言葉や男文字(真名)を女筆に用いるべきではないとする考えが示され、男が書いた手本で女筆を学ぶと心まで男のようになるので、「女性は女流書家の手本を用いるべき」という主張が展開していたという点は興味深い。つまり、中世までは男女ともに用いていた女手(仮名)は、近世になって「女筆」としてのジェンダー化が始まり、その出版の過程では、女性の女手(仮名)による「女筆」によって「女らしさ」を学ぶという形が定式化されていき、女性教訓書とともに江戸時代の女たちを「女性」化する装置としての役割を担っていった。また、そのことが女筆手本類の盛衰にも大きな影響を与え、元禄頃までに真に女性らしい言葉遣いや筆跡は消滅し始め、一世紀にわたる「女筆の時代」は衰退することになったという(5)
 とはいえ、女性によって実用的な書状が書かれるようになることで、「女らしさ」として定式化した「女筆」が衰退する一方で、ある一定の身分階層・場面などでは「女筆」が用いられ続けたことも事実である。出版ブームが去ったあとも、これら定式化した女筆消息が書き続けられたことの意味を問い返していくことも、今後に残された課題だろう。

2.女性の書状研究の進展

 女筆が定式化する以前の16世紀末頃より、多くの女性の手による書状が残されており、これは生の女性の声を伝える貴重な史料群である。女性の書状を分析した研究としては、久曽神昇『近世仮名書状集』(風間書房、1994年)、鳥取近世女性史研究会編『ある若き儒者の書状 女性史の視点でよむ』(1994年)、前田詇(とし)子『近世女人の書』(淡交社、1995年)、鳥取近世女性史研究会編『ある勤番侍と妻の書状 語られる生活・家族の絆』(2006年)、妻鹿淳子『武家に嫁いだ女性の手紙 貧乏旗本の江戸暮らし』(吉川弘文館、2011年)、『図録 芳春院まつの書状―その消息にみる人物像―』(前田土佐守資料館、2012年)、『美作小林家文書伊東万喜書簡集(江戸から実家への手紙)』(清文堂出版、2013年)などの個別研究が進展している。
 そのなかで注目したいのは、近世初期の女筆消息である。女筆手本類の出版以前でありながら、女筆特有の書風・文体などの共通性をすでに備えている。これらは中世京都の伝統文化(御所風)と近世「女筆」との連続・非連続の関係性のなかで検討していかねばならない問題だが、女筆手本類が出版される以前の女手による書状について体系的に理解するための学問が、まずは必要となってきたといえよう(6)
 というのも、ルイス・フロイスの日米文化比較を読むと、日本女性が文字を書けることに驚きを示している。しかも、その文字や文章表現は芸術といってもよい高みにある。近代化の過程で仮名がいろは48文字に簡略化される以前の仮名は、決して誰でもが簡単に書いたり読めたりできる文字ではなかったという点への留意が必要だろう。
 また、管見の限りだが、それらの書状を一覧すると、時代・階層・地域によって異なる点が認められる。つまり、女筆消息は多様性を持つが、何か共通した規則に沿って書かれているとみなすべきと考える。そうでなければ、意思伝達のツールとして役立つはずがない。つまり、「女筆」をやり取りする人間関係の背後には、共通するリテラシーを育む環境があったのであり、現存する女筆消息の多様性のなかから、彼女らが生身の生活のなかで学んだ共通した法則―女筆学―を抽出し、近世を通じての女筆消息の変化の過程を明らかにしていく作業を経ることで近世女筆学が構築されれば、女筆消息の活用によるジェンダー分析もようやく進展することになっていくのではないだろうか。

おわりに

 長門萩の大名毛利秀就の妻松平みつ(結城松平秀康の次女)の書状148点は、近世前期に女性が書いた書状としては最多ではないかと思われる。折紙に仮名文字で書かれ、女性特有の文体や撥ね文字を備えている。なかには、夫である大名を叱る文章もみられ、「女らしい」文体のなかに当時の物言う女たちのたくましい姿が見え隠れしている。みつの書状をはじめとする女筆消息の解読が進み、女たちの生身の声がもっと聴けるようになれば、近世女性像も大きく変わる予感がする(7)
 しかし、これら女筆消息を読むのは簡単なことではない。また、読めたとしても、それが正しい読みなのかどうかの確証を得るだけの学問的裏付けをわれわれは持っていないのである。つまるところ、このような現状を放置するわけにはいかないから、近世女筆学の構築が必要だというのが、差し迫った正直な話である。「女筆」からジェンダーを論じるにはまだまだ遠い道のりがあり、まずはその基礎固めをする段階にある、というのが本報告の本旨である。
 なお、当日は断片的な事例の紹介にとどまったにもかかわらず、多くの方々から示唆に富むご教示を賜った。いずれも自らの今後の課題としていく所存である。末尾となるが、報告を聞いていただいた方々には衷心より御礼を申し上げたい。

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(1)福田千鶴「藩主生母の格式をめぐる意思決定の史料空間―九代藩主真田幸教生母心戒の事例を中心に―」(国文学研究資料館編『近世大名のアーカイブズ資源研究―松代藩・真田家をめぐって―』思文閣出版、2016年)では、奥向に関わっての意思決定が全て表向の史料と他家並を参照して決定した史実を明らかにし、奥向に関わる史料は即、奥向史料であるとみなす点への注意を促している。
(2)山口古文書同好会『文久三年女儀日記 御日記帳を読む』上(2003年)、下(2005年)。
(3)これらの経緯については、2012年4月12日にメトロポリタン史学大会シンポジウムで報告し、その記録は福田千鶴「奥向研究の現状と課題」(『メトロポリタン史学』9、2013年12月)として発表した。
(4)小泉吉永氏は、「女筆手本」には純然たる「手本」と実用的な消息例文集としての「用文章」があり、女筆手本・女筆用文章・女筆往来物・男筆女用手本・男筆女用文章の五類型により、当該期の出版状況を分析している。
(5)中野節子『女はいつからやさしくなくなったか 江戸の女性史』(平凡社新書、2014年)では、漢字を学びたがる女性たちが増え、儒教的合理主義のもとで「せわしい世の中」を生きる「地女」が「やさしい女」の対局に現れてくる過程を明らかにしている。
(6)女筆を解読するための入門書として、吉田豊『寺子屋式古文書 女筆入門』(柏書房、2004年)があるが、女性の名前の書き方、料紙の用い方、文章の綴られ方など、未解明の部分も多い。
(7)福田千鶴「近世初期の「女筆消息」 松平みつの書状」(福田千鶴監修『新発見!週刊日本の歴史29江戸時代2』(朝日新聞出版、2014年)。



◆9月25日(日) 9:30−12:30
 2日目の25日は、横山百合子氏、長志珠絵氏からのご報告をいただき、前日に引き続き多くの意見が交わされました。
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報告3 遊女が書くということ
横山百合子(国立歴史民俗博物館)

 文字資料は男性の手になるものが多く、近世の女性の手になる資料は、豊富とはいえない。しかし、残された史料からは、どんな場で何が書かれたのかという内容はもちろん、どのような字体、書式で書かれたのかといった形式からも多くを読み取ることができる。本報告では、遊女の書いた手紙、記録から、遊女にとって書くことがどのような意味を持ったのかを検討した。
 報告では、長崎丸山の遊女の書簡と、新吉原遊廓の遊女の書簡、「日記」を取り上げた。丸山遊女書簡は1817年来日したオランダ商館長ブロンホフ所持のものである(オランダ国立公文書館所蔵)。内容は、ブロンホフの贈り物への返礼などであるが、数字以外が、ひらがなであること、また仮名のくずしも、ほぼ一種類の漢字をくずしたものに限られることから、単純にいろは47文字を覚えて書いたものと考えられ、いわゆる女筆としてみれば拙さが目立つ。また、「医者さん」など日常の口語表現がそそのまま用いられている部分も多く、地方色のある書簡といえる。
 一方、新吉原遊廓の遊女の書簡は、報告者が検討してきた須坂市教育委員会所蔵坂本家文書に含まれる坂本家幸右衛門等の豪農に宛てたものである。いずれも修練を積んだ文字と書式で書かれており、内容は、客への勧誘が中心である。ただし、新吉原高級遊女の文字習得の水準を示すものなのか、代書屋などがかかわっているのかについては、さらに検討したい。
 次に、遊女の「日記」について検討した。素材は、狩野文庫「梅本記」(東北大学所蔵)である。本史料は、嘉永二年に新吉原遊廓で発生した遊女による放火事件の際に名主方で作成されたとみられる史料で、調書のほか、遊女が「覚帳」などの名称によって書き、名主方で「日記」と名付けて作成した写しなどからなる。この史料からは、遊女にとって文字を書くことが日常的な行為であること、下層の遊女屋の場合、リテラシーのレベルは、日常の話し言葉を47文字のかなで表現するレベルで、社会的な定型的文書や書法、文法は習得していないことがわかる。また、日記と名づけられたものは、必要から書くというより、日々の生活の中での必要な記録や強い感情などを、きわめて率直なかたちで表現するものである。
 以上の諸史料からは、幕末期の遊女たちにおける契約観念のあり方がうかがえるほか、女文字とされるかなが、音を拾うだけで文章が書けるという特徴をもっていることから、率直な内面の表出に適合的であることが注目される。文章を書くという作業は、経験の堆積を無意識のうちに対自化していく作用をもち、反芻と「記憶の内面化」(大黒俊二『声と文字』)を通して、自己形成の力を生み出すのではないか。そしてそれは、底辺かつ女性であるという二重の周縁性を帯びた遊女たちにおいて、よりプリミティブな形で現れると考えられる。
 なお、本報告で用いた史料の一部は、拙稿「資料紹介「梅本記」−嘉永二年新吉原梅本屋佐吉抱遊女付け火一件史料の紹介―」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第200集、2016年1月)で紹介しており、参照されたい。




報告4 ジェンダー射程で「国語」論を読み直す
報告者 長志珠絵(神戸大学)
要旨 猪岡萌菜

 長氏による本報告は、近代日本の「国語」にまつわる言説を辿りながら、1990年代後半から2000年代に展開された構築主義的な「国語」論研究の課題と、そこから何が見えてきたのか、ジェンダー射程で「国語」論を捉えた時に課題としてどのような議論が可能なのかを検討したものである。
 19世紀の「国語」論は、漢字文化をいかに脱却していくかという問題を大前提としながら、言語の統一は国民形成の課題であるとして理念化・規範化されており、これらの議論は現実社会における言語運営の在り方とは乖離したところで展開していた。
 しかし、音声言語主義的な言文一致の議論が想定していたのは男性ジェンダー化された「国民」像であり、目指す規範自体が男性ジェンダー化されたものであった。このような統一言語としての「国語」を実践する過程で、「国語」を担う自己と教化される側の他者、男性ジェンダー化された「国語」規範を担わない対象としての女性、という構造が浮かび上がる。さらにそのような言語共同体の周縁に位置する女性集団に対して、文体の性差による書き分けが求められていく、という構図も一方で認められる。
 こうした流れを確認した上で、ジェンダー射程から「国語」論を考えるための問題提起として、近世社会の言語をどう捉えるかがひとつの鍵となることが示された。近世後期に女筆が希薄化していくことは先行研究が指摘する通りだが、近世後期から言語共同体の均質化への希求が高まっていく大きな流れが存在していたと考えられる。漢字文化圏の中で漢字をどうするか、言語共同体をどう建設していくか、という繰り返し行われてきた議論は、漢字文化圏に普遍的な課題であり、科挙が存在せず比較的漢詩にアクセスフリーな社会であるという前提が背景に大きく作用していた可能性がある。長氏からは、こうした前提に立ち、日本の近代化以降におけるジェンダーブラインド化された言語の諸問題を、女性性に引き付けて考えていく必要性が提示された。



※次回研究会:2017年3月 長野県でのフィールドワークを合わせて実施予定
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2016年10月07日

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター1号

2016年7月1日に発行いたしました、国立歴史民俗博物館基盤共同研究「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第1号を掲載いたします。
本号では、2016年5月に開催された第1回研究会の様子をお伝えいたします。
今後はニューズレター発行後に当ブログにも順次アップいたしますので、よろしくお願いいたします。

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター1号(PDFファイル)

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