2018年05月25日

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター7号

 若葉が初夏の日ざしにまぶしく輝く季節となりました。日中は汗ばむくらいの陽気が続く今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第7号では、2月21日(水)に開催された国立歴史民俗博物館主催・韓国国立ハングル博物館共催・JSPS科研費(15K02813)「東アジア諸王室における「后位」比較史研究に関する国際的研究基盤の形成」協力による国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」参加記を掲載いたします。
 集会は、パク ヨングク(朴榮國)国立ハングル博物館館長による国立ハングル博物館の設置目的と特徴、展示の紹介をいただいた後、久留島浩館長による歴博の紹介と、館内の文字に関わる展示見学に続き、3本の報告とコメント、総合討論が行われ、本共同研究にとっても、大変有意義な研究集会となりました。

本記事と同内容のPDF版はこちら→日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター7号



国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」
동아시아 문자문화와 젠더
Culture of Writing and Gender Studies in East Asia
2018年2月21日(水)(於国立歴史民俗博物館)

◆スケジュール
10:30-10:45 開会・開催趣旨説明
10:45-11:45 館長挨拶・博物館活動紹介
       国立歴史民俗博物館/韓国国立ハングル博物館
11:45-13:00 休 憩
13:00-14:00 ユ ホソン(Riw, Ho sun)韓国国立ハングル博物館
       「朝鮮時代女性読者のためのハングル資料」
14:00-15:00 イ ヒョンジュ(Lee, Hyunju)韓国成均館大学校
       「韓国古代金石文と女性
         −『蔚州川前里書石』から見た新羅の王室女性−」

15:10-15:15 休 憩
15:15-16:00 三上 喜孝(MIKAMI Yoshitaka)国立歴史民俗博物館
       「古代日本の文字文化とジェンダー」
16:00-16:40 コメント 伴瀬 明美(BANSE Akemi)東京大学史料編纂所
       総合討論
16:40-16:45 閉会挨拶
司会:仁藤敦史(国立歴史民俗博物館)

 国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」では、本共同研究のメンバーである義江明子氏、小島道裕氏から参加記をいただきました。


国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」参加記 
義江明子(元帝京大学)

 2018年2月21日に国立歴史民俗博物館大会議室で、国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」が開催された。午前中にはハングル博物館のパク ヨングル館長による、映像を上映しての博物館紹介があった。ハングル博物館は2014年に設立された韓国最新の博物館で、2017年の来館者は60万人にのぼるという。ハングル文化の普及に向けた同博物館の役割には目をみはるものがあり、「ハングルの社会的経済的価値」への注目が印象深かった。午後のシンポジウムでは、ユ ホソン氏による朝鮮時代のハングル使用をめぐる報告、イ ヒョンジュ氏による古代新羅の漢字による称号表記をめぐる報告、三上喜孝氏による東アジアの画指使用をめぐる報告、の三報告があり、伴瀬明美氏によるコメントがなされた。逐次通訳を交え限られた時間内ではあったが、フロアとの質疑もあり、刺激に満ちた濃密な時間を過ごすことができた。以下、シンポジウムの感想を、自分の問題関心にひきつけつつ述べてみたい。
報告・コメント・質疑の全体を通じて、東アジアの文字とジェンダーをめぐり、二つの面からの論点が浮上したと感じた。一つは、漢字の使用/不使用にみるジェンダー、もう一つは、漢字の受容を通じてなされたジェンダー編成の問題である。

漢字の使用/不使用にみるジェンダー
 第一の論点は、ユ報告と三上報告でおもに取り上げられた。両報告からは、漢字文化の周辺地域において、漢字に代わる/補足する機能を持つ、ハングル/画指が、「文字(=漢字)文化から排除されてきた人達」のために、うまれ/考案され/使われたことが明かになった。対象は男女である。
ユ報告によれば、ハングル文字は「漢字の読めない男女」のために考案された。世宗によるハングル創成は15世紀半ばのことで、以後、さまざまな普及政策がとられたが、広く庶民一般にハングルが使われ始めるのは、19世紀末の高宗代になってからだという。これは庶民への教育普及に関わることなのだろう。日本でも近世後期19世紀以降に、庶民の教育機関でとしての寺子屋の数が著しく増加し、男女の子どもが「いろは」文字の手習いをした。
 庶民に普及する以前のハングルは、おもに王室・支配層女性によって使われ、また彼女たちを読み手として(男性によって)書かれたのだという。ユ報告では、@15世紀半ばに王室の仏事に関わって作成された、男性用の漢文版と女性用のハングル版(漢文口語訳のハングル表記)の二通りの「御牒」、A19世紀前半の、女官が漢文「冊文」を朗読練習するためのハングル本(漢字音そのままのハングル表記)、B19世紀後半に女官・舞女が使った、宮中の宴会での舞踊「呈才」における唱詞練習のためのハングル本、C朝鮮後期の男性知識人が、夫人と嫁に送ったハングル手紙、の四例が紹介された。私が特に興味を覚えたのは、@Aの事例である。
王室女性(太妃・王妃・世子嬪など)や女官が、宮廷の儀礼・仏事の場で自らの役割を果たす上で、漢文文書を理解/朗誦する必要から、漢文を口語訳/音読したハングル表記版が作られた。伴瀬氏のコメントでも注目されたように、ここには「宮廷儀礼におけるジェンダー化」の問題がある。それが、文字使用におけるジェンダー化の前提としてあるらしい。「文字(=漢字)文化から排除されてきた人達」のためにハングルは作られたが、「排除されてきた人達」とは、具体的には「下層男女+支配層女性」ということになる。支配層男性は漢字とハングルを併用し、役目として宮廷女性のためのハングル版を作成し、あるいは身近な女性のためにハングル手紙を書いた。宮廷女性は必ずしも漢字が読めなかったわけではあるまい。規範≠ニして「排除」されていたのである(日本の平安文学を代表する『源氏物語』の作者紫式部が、「一という漢字」すら書けないふりをしていた、と日記に記すように)。
 三上報告では「画指」を取り上げ、東アジアにおける漢字文化の広まりと同様に、日本だけではなくベトナム・西夏・朝鮮でも、漢字署名にかわる本人確認手段として普及していたことを明かにした。男は左寸、女は右寸という(中国に発する左を上位とする)規範が共通してみられ、朝鮮では、売買に関わらない士大夫の代わりに、奴婢が手掌・手寸を行った。日本の8世紀の実例では、指の方向と文字の方向が逆、つまり、文書管理者(官人)は口頭で文書を読み上げ、その向きのままで「画指」をさせたのだという。それが9世紀半ばの土地売券では文字の向きと指の向きが同一方向になる。つまり、前者では文字を解さないという前提、後者では文字を解するという前提の上で、「画指」させたことになる。
「画指」の使用は、実際に文字を解したか否かとは別に、文書様式・作法の問題であること、身体性と深く関わる本人特定手段であることを、三上氏は強調された。報告では直接に仮名の問題は取り上げられなかったが、「画指」をめぐる考察の延長上で、男=漢字/漢文=公、女=仮名/和文=私≠ニいう男女による文字・文体の使い分けがあったとすれば、それは、情報伝達の様式や規範に強い制約を受けつつ形成された可能性がある、とされたのである。
三上氏も報告の最後でふれられたように、近年、9世紀後半〜10世紀初の「草仮名」「平仮名」資料(墨書土器など)が平安京の貴族邸宅跡から出土し、注目されている。この時期は「平仮名」の成立期にあたる。皇太后(天皇の母)を弟である高位貴族が自邸に迎えた宴会の席で、貴族男女によって「仮名」を使った文筆の世界が繰り広げられたらしい。「宮廷儀礼における男女の機能分担」の具体的解明が待たれる。

漢字の受容とジェンダー編成
 第二の論点は、イ ヒョンジュ報告の主要テーマである。イ氏は、6世紀前半の新羅の金石文をとりあげ、そこに見える「太王妃」「妃」「夫人」「女郎王」「妹王」といった王の母・妻・娘・妹を指す(と思われる)女性称号を考察して、王権強化の過程と並行して王室女性の序列化がなされていったことを明かにした。当時の新羅は、高句麗から自立して王権の強化期にあった。その過程で、ヒョッコセやマリツカンといった固有王号から漢字表記の「王」へ、複数の「王」から唯一の「大王」へ、という変化があった。それと同様に王室女性についても、固有称号から「妃」「夫人」等の漢字表記を用いた称号への移行があり、王室女性内部の序列化がなされたという。
 伴瀬氏がコメントで指摘されたように、これは「王室女性の関係性をどう文字表記するか」という問題である。漢字の「王」「妃」「夫人」には、中国での固有の用法があるが、新羅はそれを独自の理解で固有称号と結びつけつつ、6世紀前半に王族の序列化を実現していった。日本でも、7世紀後半に同じく漢字の「王」「妃」「夫人」を受容しつつ、王族の序列化が図られた。しかしそれは、新羅とは異なる固有称号と、異なる結びつき方で、異なる序列化がなされたのである。これは極めて興味深い比較の素材といえよう。
日本では、6〜7世紀の「王」号は男女の王族に共通で用いられ、かなり広い範囲の王族全てが「○○王」と称された。「王」の訓みは固有語では「ミコ」(御子)であり、身分の高い人を意味する普通名詞である。当時の系譜の定型的書き方では、子どもは男女を区別しない出生順で記された。親族構造としては、王族内での男女序列の乏しかったことが推定できる。「大王」号は5世紀後半の金石文に見えるが、必ずしも、唯一最高の王をさす君主号ではない。一般の王族に対しても、特別の尊称として使われた。
王族内部の序列化がすすむのは、国家体制確立期の7世紀後半である。唯一の君主号としての「天皇」号の成立と並行して、天皇の子どもは「皇子」/「皇女」、それ以外の王族は「王」/「女王」とする制度的区別が成立した。固有語の訓みとしては、「皇子」「王」はミコ=A「皇女」「女王」はヒメミコ≠ナある。つまり、上下・男女の区別のなかった固有語ミコ≠ノ、新たに漢字の「皇」字で区別し王族序列化を実現するとともに、女には漢字の「女」、固有訓みでヒメ=i高貴な女性への尊称)を付加することで、男女の称号区別がなされたのである。同時に、男女で異なる出仕方法・待遇も制度化された。まさに、王族のジェンダー編成である。
 貴族豪族女性についてみると、固有語での一般的尊称は「トジ」(刀自)「オオトジ」(大刀自)である。8世紀初に律令で「皇后・妃・夫人・嬪」というキサキの序列が制定された時、貴族豪族出身のキサキは、第三序列の「夫人」とされた。訓みは「オオトジ」である。現在でも、「刀自」は地方旧家の妻に対する古風な尊称として使われ、「夫人」は上流名家の妻を指すもっとも一般的な尊称である。一方、イ報告によれば、「夫人」「大夫人」は王妃に対する尊称として、5〜6世紀前半の新羅の金石文にみえ、「王妃」称号の成立とともに、貴族女性も「○○の妻△△夫人」として序列化されていくという。漢字の「夫人」表記がどのようにして固有語の女性尊称と結びつき、上層女性の序列化を実現していくのか。日韓の共通性と相違は、興味深い考察課題である。

新羅の王族序列化過程における「女郎王」「妹王」
 フロアとの質疑では、「女郎王」「妹王」を新羅の王族序列化過程にどう位置づけるかで、議論が交わされた。質問者(伊集院葉子氏)は、6世紀初の碑文には7人の「王」がみえ、そこから1人の王が「王」号を独占していく過渡期にあって、「女郎王」「妹王」という「王」と呼ばれる女性がいたことに注目した。そして、(男弟の「葛文王」のように)女性の「王」も何らかの役割を果たしていたのではないか、と問うたのである。それに対してイ氏は、「女郎王」は王の娘、「妹王」は王の妹であり、いわば娘・妹という一般名称に尊称の意味で「王」を付したもの、との理解を示した。そして彼女たちが担ったのは、古来より王室女性が果たしてきた宗教的役割と思う、と答えられた。質問者は「女郎王」「妹王」の「王」に着目し、イ氏は「女郎」「妹」という親族名称を重視する、ということであろうか。
 日本の学界でも、かつては女帝「巫女」説が有力学説の一つだった。しかし史料批判がすすみ、女性の聖性を強調する本質主義への批判もあって、近年ではあまり強調されなくなった。それよりはむしろ、当時の親族構造・王権構造の中に男女の王を位置づける方向に、研究はシフトしてきている。「女郎王」「妹王」についても、そうした観点からの検討がすすめば、宗教的役割に限定されない側面が見えてくる可能性もあろう。また、「女郎」「妹」も、たんなる親族名称ではないかもしれない。日本の古代史料にみえる「女郎」「郎女」との比較検討も必要だろう。
 このように、漢字文化の広がった地域における、漢字の使用/不使用をめぐるジェンダー、漢字受容を通じて実現したジェンダー編成のありようをみてきて、あらためて浮かぶ疑問がある。そもそも漢字を補足/代替する文字を持たなかった中国においては、難解な漢字の使用/不使用をめぐるジェンダーはどのようなものだったのだろうか。また、表意文字である漢字によって男・女が様々にカテゴライズされたことは、どのような影響を社会に及ぼしていったのだろうか。
 ちなみに「女」という文字は、先学の研究成果によると、唐の律令用語では未婚の娘(ムスメ)を指し、独立した社会的身分・法的権利を持たない。それに対して、家父長制家族が未成立で、婚姻が女性の社会的身分変化をもたらさなかった古代日本では、中国律令のこうした「女」概念を受容することができなかった。そのため、日本の律令における「女」には、婚姻の有無にかかわらず独立した社会的身分を有する「オンナ」一般を指す用法がみられる、という。新羅では、「女」という漢字は、どのようなものとして受容され、機能したのだろう。興味は尽きない。
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歴博国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」に参加して
              ―特に「画指」について―

小島 道裕(国立歴史民俗博物館 歴史研究系)

集会の所感
 本集会は、日韓の研究者が文字文化をジェンダーの視点から考察したものであり、私は、国立歴史民俗博物館第2展示室「中世」について、その関連部分を御案内した。
 「かな」の発達、中世における女性の地位の高さを示す板碑や土地売券、「後家尼」の描かれた風俗画、女性たちに宛てた蓮如の仮名交じりの文、庶民の文字としての片仮名、などであり、国際的な視点での考察対象として期待できる要素が多くあることは共有できたかと思う。
 研究発表では、まず柳好宣氏から男性が女性に対して用いたハングルの文書について、次いで李R珠氏から磨崖碑に見られる新羅王族女性の呼称の問題についての報告があり、前者については仮名文字との比較について興味が持たれ、後者については限られた情報から考察を展開する古代史の醍醐味を味わうことができた。
 三上喜孝氏の「画指」についての報告は、アジア各国に見られる庶民の署判方式として重要であるが、報告に触発されて少し課題や仮説も思いついたので、以下それについて述べてみたい。

画指を書く方法について@ 背か腹か
 まず画指を書く方法だが、三上報告で説明に使われた図では、指の背側(爪のある方)が上になっていたが、しかし、こちら側には、実際は指の根元の部分に線が存在しない。「本」の部分まで点を打つには不適当であろう(図1)。関節の線をすべて確認出来るのは指の腹側(「手のひら」側)であり、そちらを上に向けて行なったのではないだろうか(図2)。ベトナムの例で指を横側から描いているのも、この腹側の線を見せるためと思われ、図3も考えられる。
 なお、その後、共同研究「中世文書」の共同研究員であるソウル大学の文叔子氏に伺ったところ、指は背側を上にして、第1関節と第2関節の間の長さを記す、と理解されていた。朝鮮時代のものは、たしかに根元の部分は点を打たずに線を引いているようなのでそうかもしれないが、しかし「本」から「末」までの4点方式の場合は、やはり背側では考えにくいと思う。

画指を書く方法についてA 書くのは誰か
 三上氏は、画指で署名する人間は、文書を読み上げる人間と向き合っているので、文書としては「本」が上になる、と指摘されたことは大変興味深かったが、では画指を書く、ないし点を打ったのはどちらの人間だろうか。署判する人間が自ら点を打つのか、あるいは文書を作成し読み上げた側の人間が打つのか、という問題が生じると思われた。
 これは、署名者が自ら主体的に画指を行なうのか、それとも文書作成者の側に「写し取られる」のか、という違いであり、署判の意味としては重要だと思われる。おそらく、詳細に観察すれば、筆の入り方や傾き方によって、どちらの向きから点を打ったかについて情報を得ることは可能と思われ、その点についてもさらに研究の余地があるように思えた。

画指を書く方法についてB 右か左か
 この「誰が書いたのか」という問題について、もうひとつ考えてみたいのは、画指(および画掌)に用いる手が男女によって区別されており、国や時代を問わず、男は左手、女は右手を用いているらしいことである。なぜ右手と左手を使い分けるのかはよく分かっていないようで、「お雛様」の並べ方と同様の序列の問題、すなわち男が左手なのは左が上位だから、と考える向きが多いようだが、しかし「左遷」という言葉があるように、中国では古くは左を下位、右を上位とする考え方があったはずだから、それでは説明しにくいのではないか。
 そこで思いついた仮説だが、女が右手なのは、別のジェンダーの問題なのかもしれない。
 実際にやってみると分かるが、右利きの場合なら、左手の画指を書く(点を打つ)のは容易だが、右手の画指を自分で書くのは、左手に筆を持たねばならないから、かなり困難である。つまり右手の指を書かねばならない女性は、困難な作業を強いられるか、もしくは別の人間に書いてもらわねばならない、というハンディーを負うことになる。その意味で女性が不利な立場に置かれている、と考えることも可能ではないだろうか。

文書の身体性・呪術性として
 画指という署判の方法は、日本では中世には廃れたが、しかし、拇印、掌判、爪印など、身体の一部を文書に写す方法は存在する。また「筆軸印」などは、形による証拠能力は皆無であるにも関わらず、文書に本人が自ら「しるし」を付けた、というこれも一種の身体性として行なわれるものであり、文書の持つ呪術性の表われとも言えよう。さまざまな署判方法の比較と、物としての文書の研究には、さらに多くの可能性があると思えた。

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画指説明図



posted by 日本列島社会の歴史とジェンダー at 16:16| Comment(0) | ニューズレター

2018年01月30日

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター6号

 あっという間に新年から一ヶ月が経過しようとしております。厳しい寒さが続き、関東でも例年にない積雪に見舞われましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第6号では、昨年開催した第5回研究会と第6回研究会について報告いたします。また、2月21日(水)には国際研究集会「東アジアにおける文字文化とジェンダー」が開催されます。是非ご参加ください(案内はこちら

本記事と同内容のPDF版はこちら→日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター6号

第5回研究会 書評『日本古代女帝論』 評者:田中禎昭氏 

2017年10月28日(土)13:00-16:30(於日本女子大学)

13:00-13:40 成瀬記念館見学                    
当研究会メンバーの水野僚子氏(日本女子大学)の案内で、成瀬記念館の見学を行いました。成瀬記念館は、日本女子大学の創立者成瀬仁蔵の教学の理念と学園の歴史を明らかにし、広く女子教育の進展に寄与することを願って設立された博物館相当施設で、学園史を中心にした資料紹介を中心に、学園の文書館、博物館として、様々な活動をおこなっています。見学時は、「日本女子大学の災害支援」という特別展示が行われており、女性による災害支援の取り組みの実態について学ぶことができました。

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13:40-16:30 書評会                               
義江明子『日本古代女帝論』(塙書房、2017)の書評会を行いました。書評会の開催は本研究会においてはじめての取り組みでした。評者として研究会外から田中禎昭氏(専修大学)をお招きし、著書の内容の紹介とともに、忌憚のない意見、疑問点を提示していただきました。著者であり、当研究会メンバーである義江氏(元帝京大学)にも参加していただき、著者・評者・参加者のあいだで有意義な議論が行われました。

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コメント           
共同研究メンバーの村和明氏から、本書評会へのコメントをご寄稿いただきました。以下に掲載いたします。

第5回研究会に参加して
村和明(三井文庫)


 去る2017年10月28日(土)、日本女子大学目白キャンパスで開催された第5回研究会では、田中禎昭氏による義江明子氏の近著『日本古代女帝論』の書評がおこなわれた。学術的に意義ある批判的検討をおこなう能力はないので、おもに感想を記させて頂くことにしたい。10.jpg
 私はいちおう近世の天皇制を勉強していたことがあり、義江氏のお仕事はとても面白く拝読するものの、所詮は素人のことで研究史上の要点や機微に疎いのだが、評者の田中氏の(社交辞令でなく)非常にていねいな要約で、議論のポイントが自分なりにも理解できた(ように思われた)。他方、著者の義江氏からは、評者の懇切なご紹介があり、特に村落の年齢階層の解明がいかにご自身の仕事に役立てられているかを平易に述べられたので、研究史上の評者の姿や両者の位置関係が整理されたところから議論が展開され、門外漢としてはありがたかった。著者・評者が敬意を払い合いつつ、かなり突っ込んだ質疑もあり、さらに研究史上の前提となるお仕事をされた仁藤敦史氏も参加されていたので、議論はかなり立体的な様相を帯びた。その議論を筆録したり深めたりする能力はないので、以下雑駁に、個人的に印象に残った点を挙げたい。
 一つは概念・用語の取り扱い方である。ある概念・用語が、辞書的もしくは学術文献上で明記された狭義の定義・用法に加え、研究史を取り巻く学会の雰囲気なり同時代の社会通念なりがもたらす含意をもち、ある種の色合いを暗黙のうちに帯びる際に、それらをいかに取捨し用いてゆくべきかという点、田中氏の提起や、いくつかの語に即した質疑を通じて考えさせられた。また一つは、先行研究批判の方法である。これは義江氏の著作のハイライトの一つと読め、田中氏も高く評価されていた部分であるが、折口信夫説の問題点を指摘される際に、問題が生じた背景と過程が具体的に解明されることで、批判の趣旨にすさまじい説得力が生じていて、研究対象と研究史の分析にはほんらい原理的な区分はないのだなと感じさせられた。用語やその背景にある研究史における暗黙・無意識の合意の側面、自他の研究者のバイアスと変化、等々に対する認識を強くもち、それらを自覚的に組み立て直して、意識をいきわたらせた叙述をおこなうことの重要性が印象づけられた。
 このほか、王権の変容を規定した複合的な諸条件を叙述する際に、その布置の理論的整理が必要との評者の注文に対し、上から諸条件がある種総動員された印象との著者のリプライがあった点や、軍事力優先の社会編成が上から志向されることが社会に及ぼす影響などの議論も、私の身近な分野にかかわって身に染みた。
懇親会も、毎回のことではあるが、非常に充実したものであった。幸運にも義江氏・田中氏・仁藤氏と顔を突き合わせる席に座らせて頂き、古代史の現況をうかがったり、休憩時間中に場外乱闘的にあった議論への素朴な疑問を解決していただいたり、一度うかがってみたかった幼稚な疑問をぶつけたり、大変贅沢な時間を過ごさせて頂いた。
 以上は走り書きのメモと記憶で記しているので、誤りもあるのではないかと思う。寛恕をお願いする次第である。



第6回研究会 「社会集団とジェンダー」

2017年12月9日、10日 (於国立歴史民俗博物館)

◆9日(土)12:40-17:15
12:40-15:00 書評『中世の〈遊女〉生業と身分』 評者:曽根ひろみ氏

辻浩和『中世の〈遊女〉生業と身分』(京都大学出版会、2017)の書評を行いました。評者には、曽根ひろみ氏(元神戸大学)をお招きし、近世史研究の立場から、幅広い視野でコメントをいただきました。著者であり、本共同研究のメンバーである辻氏が質疑応答の内容について、まとめとコメントをくださいました。以下、掲載いたします。

『中世の〈遊女〉生業と身分』書評会
辻浩和(川村学園女子大学文学部准教授)


 曽根ひろみ氏より、拙稿に対する書評をいただいた後、参加者を交えて質疑応答が行われた。その概要について、簡単に紹介しておきたい。矢印の後が応答内容である。
まず曽根氏から出されたコメント・疑問点に対して、筆者の考えをお話しした。3.jpg
・全体としては網野善彦氏・後藤紀彦氏の批判的継承を目指したもの。
→その通り。網野・後藤説は遊女論を被差別身分論と切り離す上で重要な画期となった。
・他分野の成果を積極的に取り入れているが、そのせいで論理展開がわかりにくい。
→基本的には考え方のレベルで他分野の研究を参照しており、分析自体は歴史学的にやっているつもりだが、説明が長くなってしまった点は否めない。
・後白河・後鳥羽の相違点、その社会的・政治的背景がよくわからなかった。
→当時の政治的文脈では、皇位継承に関して院(治天)の意向を踏まえているかどうかは重要な問題。その点で両者は大きく異なっており、貴族から受ける支持が全く違う。
・ごく限られた史料からかなり大胆に一般論を導き出す手法に違和感がある。
→中世史の中でも拙著はかなり断片的な史料を扱っている。そういう史料を使わないとそもそも議論が出来ないので、実証が粗くなってしまうことは否めない。
・王権は〈遊女〉を組織的に支配しなかったが、寺社が組織的に支配するのはなぜなのか。
→推測だが、寺社による支配の目的は法楽、神様を楽しませるという寺社の本質にかかわる部分にあって、だからこそ〈遊女〉を拝殿組織に取り込む。一方、朝廷儀式においては遊女を組織するメリットが特にないのではないか。
・兵庫の遊女を組織する「上部権力」とは何か。
→恐らく西宮などの寺社だと思うが、史料的にわからないのでそういう表現をとっている。
・近世への展開について「遊女」と「売女」の混同が見られる。「売女」の系譜、例えば「夜発(やほち)」をどう理解するのか。4.jpg
→史料への出現状況をみると、「遊女」と「夜発」は辞書的な史料で、必ず対になって出てくる。個々の事例を見ても、同一実体を指す異称と見るべきだと思う。街娼的な存在が出てくるようになるのは、15世紀末の『廻国雑記』あたりが最初なのではないか。
・近世初頭の遊女にあまり卑賤視は見られない。むしろ世の女の鏡とさえ思われていた節がある。評者が指摘した「むき出しの売春」の主体は、近世後期以降の下層の遊女、あるいは街娼であり、近世初期の遊女とは区別されねばならない。
→街娼的存在が出てくるのが15世紀末なので、「むき出しの売春」は近世とつなげて考えた方がよいのではないかと考えた。ここでは「卑賤視」よりも「特殊視」に力点があり、横田冬彦氏が論じたような近世初期の「特殊視」に繋がるのではないかと考えている。
 次に、フロアから以下のような質問が出された。
小島道裕氏:@『七十一番職人歌合』の立君の絵については、岩崎佳枝氏が指摘しているように男性を「奈良法師」の使と捉えた方がいいと思う。そうすると『東山名所図屏風』で清水坂に描かれる女性のお酌をどう捉えるかが問題になる。通常の遊女屋の定型的表現とも異なるが、どう考えるか。A後家尼のような女性が近世になると急にいなくなってしまう。女性の地位自体が変わっていく中で遊女の地位も変わるのでは。
→@五条坂の遊女については他にも史料があるので、『東山名所図屏風』も遊女ではないかと考えた。お酌をするというのは一般の女性とは考え難いのではないか。A女性一般についてはまだ勉強不足なので今後勉強したい。
横山百合子氏:@遊女の変容はセックスワークの流れの中で位置付けるのではなく、女性一般の地位変化の中で位置付ける方が、時代構造と関連付けられると思う。近世になると女名前が激減し、女性が自立した経営者として存在すること自体がほぼできなくなる。特に近世都市では遊女の営業ができる条件そのものがないのではないか。A客としての男性の階層性、都市社会構造に対応する客層の変化と、遊女の変容がリンクしているのでは。B遊女を都市の事象と見るならば、都市の権力編成のあり方についても目配りが必要なのではないか。C近世だと権力に把握されているのが遊女屋―遊女で、把握されていないのが売女屋―売女。そういうあり方は他の身分とも共通する。
→@中世後期の女性の地位変化については研究が少なく難しい。A中世後期の遊女屋の客は、青侍などが多いと思う。史料的に集めることは可能なので今後考えたい。B中世後期の遊女史料は、基本的に都市的な検断・暴力・騒擾と関わる形で出てくる。そういう意味で都市権力と無縁ではない。C遊女集団の外で女房たちが買売春を行っていることから考えると、組織されていない女性たちがいるはずだが、中世後期だと史料的にほとんどわからない。
著者:近世には女名前の遊女屋が多くあるという話を聞いた。それはどう捉えればよいか。
→横山氏:遊廓の中の女名前はたくさんあるが、自立的な女性経営の場合は男性が背後にいて暴力的にしきる場合が多いので、名前だけでは判断できない。後家の場合や、遣り手が立ち上がって一家経営している場合もあると思う。
長志珠絵:古代史の研究者が中世の方まで時代を下げて女房と遊女の互換性を論じることにはどのような意味があったのか。
→遊女は女房と同じ階層の人々から発生するとされるので、その性格が中世まで残るということを確かめたかったのではないか。
水野僚子氏:様々な場面にいたはずの遊女が一様に描かれていることに意味があると思う。誰が遊女をそのように見たかったのかという問いが必要ではないか。例えば『一遍聖絵』の場合だと、酒宴・遊女と一遍の対比が重要。そういう描かれ方を読み解ける人でないと、あまり機能しないものだったのではないか。
→著者:絵の機能という視点からは、定型表現、図の引用などをどう理解すればいいのか。
→水野氏:絵描きが書き写して広がっていく場合と、典型的なイメージを描いている場合があるが、祖師の教えと関わっていないと書かれない。そういったところから一つ一つの絵巻の制作事情を見ていく必要がある。
曽根氏:遊女の容貌について書かれているが、貴族女性などの容貌は書かれないのか。
→著者:貴族の場合には基本的には髪とか立ち居振る舞いで判断されているのでは。
→水野氏:『源氏物語』を見ていると、美醜問わず容貌について書かれているので、容貌の判断自体はあったと思う。ただし、末摘花であっても貴族女性の容貌を絵に描くことはしないので、貴族女性としてあってはいけないことは描かなかったのではないか。
曽根氏:また近世だと隠れて売春をすることは違法なので史料に残るが、中世だと権力がそこまで関与しないのでは。
→中世だと売春自体を取り締まることはない。史料的にはむしろ仏教的罪業視が大きい。
→横山氏:近世も売春自体が取り締まられることはなくて、届け出ている場合にはむしろ権力には保証する義務がある。
 横山氏から、遊女の自立性が失われることを位置付ける上で、女性の地位低下を追究する女性史の成果を批判的に継承することの重要性が再度強調され、議論は終了した。
 今回、様々な時代・分野の方に意見をうかがって特に興味深かったのは、史料の扱い方をめぐる議論である。時代・分野によって全く感覚が異なるため、より丁寧な議論に努める一方で、中世史としての方法論を自覚的に深める必要性を痛感した。





15:00-17:15 研究報告

報告1 大名家奥向の空間と機能の可視化“試論”―仙台藩伊達家を中心に―
柳谷慶子(東北学院大学)


1.武家の奥向研究の進展と史料群
 近世の武家の奥向研究は近年、あらたな成果を積み上げているが、博物館の展示にどのように活かされているのだろうか、また今後どのような展示の可能性を生み出せるだろうか。本報告はこうした問題関心のもとに、いくつかの観点から関係史料を紹介し、奥向の空間、および機能を可視的に理解するための視点をささやかながら提示した。
 徳川将軍家、および大名家には、それぞれ当主の女性家族がおり、当主家族に仕える奥女中の組織があったが、長らくその存在や職制の解明は歴史学の実証研究の対象とされずにきた。幕政史も藩政史も、もっぱら表向を担う男性家臣の役職や官僚化に着目し、また男性当主と家臣で執り行う政治儀礼に関心を向けてきた経緯がある。こうした研究状況の背景には大きく二つの問題を指摘できる。
ひとつは、当主の妻室や奥女中が担う任務に対して現代社会のジェンダーバイアスがかかってきたことである。奥女中は将軍・大名夫妻のそば近くに仕え、子女の出産と養育、および日常の衣食を中心とする暮らしの世話に従事するほか、当家と親族・一族家との通信役割などを担っていた。それは権力体としての武家の存続を図り、武家が備える格式の維持と再生産に関わる重要性を帯びた任務であった。だが「女中」の名称からは、近代の家で雇用された使用人のホームヘルパー的なはたらきがイメージされがちである。家事や育児の仕事に対する対価の低さもあり、時代のなかに正当に位置付けられずにきたといえよう。当代の私的な家事領域とは峻別される、「公的」性格を帯びていた任務・職務であることへの認識がもたれずにきたのである。
 二つ目として、奥向関係の史料は表向と比べれば残存度が少ない。人付きの職務であり、側近くに仕えることから守秘義務が課せられていたことが大きな要因の一つであろう。一次資料として伝存するのは雇用時の証文や誓詞ぐらいで、役職の中身に関する一次資料の残存度の低さが研究の関心を喚起しないできたことは否めない。
 ほかにも、奥女中の奉公は表の武士と異なり基本的に当人1代限りとされ、家としての継承がないとみられてきたこと、さらに政治に関与する言動を戒められてきたことなどを挙げてよいだろう。5.jpg
 1990年代に入り、長野ひろ子氏により、歴史学にジェンダー視点の導入の必要性が主張され、近世政治史の読み解きにもその観点が示されると、将軍家・大名家の奥向に対して「政治領域」「公的領域」の視点が及ぶこととなり、関係史料の掘り起こしが速度を増してきた。幕政・藩政史料の一群に奥女中の分限帳が多数発見され、正室の日常を記す奥日記や、子女の誕生とその生育儀礼を記す記録類なども見出されてきた。この間の経緯については、福田千鶴氏『近世武家社会における奥向史料に関する基礎的研究』(平成16年度〜19年度科学研究費補助金基盤研究C)、同『日本近世武家社会における奥向構造に関する基礎的研究』(平成21年度〜23年度科学研究費補助金基盤研究C)、菊池(柳谷)慶子 『近世武家女性のライフサイクルと奥奉公に関する基盤的研究』(平成23年度〜26年度科学研究費助成事業・学術研究助成基金助成金基盤研究(C)などを参照されたい。
 奥向が担った主な役割には、@子女の出産と養育による世襲の家の継承、A世継ぎの男子の初期教育、B一族・親族との贈答・文通による交際、C諸儀式の執行などがあり、さらに参勤交代時の江戸上屋敷における正室や後家の指揮権の発動や、表儀礼への参加、幼少当主の後見役割なども明らかにされてきている。一方、奥向は表向と異なり、組織と規模は当主の代ごとに流動的であることは十分に認識される必要がある。当家メンバーの数や出自は代により異なり、奥女中の任務は人付きであることに起因するものである。

2.奥向を扱った展示の動向 
 最近10年ほどの全国の博物館の展示で、奥向が取り上げられた例の多くは、婚礼儀式とその調度及び衣装を並べて解説を加えるものである。徳川美術館所蔵国宝「初音蒔絵調度」(3代将軍家光の娘千代姫が尾張徳川家2代光友に嫁ぐ際に持参)の歴史はよく知られているが、各大名家の歴代正室の調度品や雛道具、衣装などが、県立・市立博物館での展示に定期的に登場し、所有者の人生に関心が向けられてきた。2017年度でみれば、9月に徳川美術館本館「秋季特別展 天璋院篤姫と皇女和宮」、10月には東京都立中央図書館「幕末の大奥と明治の皇城―和宮と昭憲皇太后」などがある。
 仙台市博物館で2001年に仙台開府400年記念として開催された特別展「大名家の婚礼 お姫さまの嫁入り道具」はまさにその名称通りの展示であったが、2015年度の企画展示「仙台藩主勢ぞろい!―初代伊達政宗から13代慶邦まで―」では、13代にわたる歴代藩主と正室をセットで肖像画、自筆書状、絵画・和歌を展示したことに大きな特徴があった。従来関心を向けられなかった正室たちの血肉を感じさせる所蔵史料を掘り起こし、出自や夫婦の関係を紹介した展示の方法は、担当学芸員の問題意識がうかがわれ、展示品の一つ一つに興味を引き付けられた。
 さらに近年の研究成果が可視化された展示の例として、江戸東京たてもの園 2011年4月の特別展「武家屋敷の表と奥」では、複数の屋敷絵図の比較検討をおこなっている。これに先立って鳥取県立博物館の2006年「女ならでは世は明けぬ―江戸・鳥取の女性たち」は、鳥取藩の女性の資料を庶民と武家の双方で出していたが、武家女性については屋敷絵図、書簡、道中日記、肖像画、衣装を展示し、奥女中の分限帳をはじめ豊かな史料群の紹介があった。
 一方、国立歴史民俗博物館では1994年、企画展示「近世の武家社会」が開催されている。ここに女性の姿がみえないのは、当時の研究状況を映し出すものであろう。2010年の企画展示「武士とはなにか」では、Y章「文武両道」のなかで、奥女中の出世をテーマとする「奥奉公出世双六」と「新版娘庭訓出世双六」の二点が展示された。双六は、男性にとって出世は身分を超えないことを示唆するが、これに対して上記の双六は、農民や町人から奥女中となる道を示しており、すなわち女性は奥女中となることで武士身分に身上がりできる可能性を伝えている。展示史料にはほかに「川路佐登子日記」があり、解説が加えられている。奥女中の身分を取り上げるのであれば、将軍家や大名家の分限帳は有効な展示資料になるはずである。
 
3.奥向を可視化させる史料群
 奥向の「公的」領域を展示として可視化するうえで、どのような史料群の提示が可能だろうか。以下、@大名家の奥向空間、A奥女中の衣装と髪型の描写に注目し、さらにB出産・養育、教育役割、C奥向の交流を支える文通役割、に関して史料群をみておこう。
(1)奥向の空間構造
 江戸城大奥絵図、大名家の屋敷絵図については、表・中奥・奥の配置、奥における御殿向(正室の居所)・長局(奥女中の生活空間)・広敷向(男性家臣の詰所)の配置が知られるが、さらに部屋割に注目することで、女性たちの日常の暮らしや仕事空間の理解が深められる。一つの大名家で江戸屋敷と国元の居城の奥向を比較し、さらに複数時期の建物群の比較検討をおこない、表向と奥向、奥向のなかの変化の模様も探りたい。
部屋割と奥日記の記載とを合わせてみることにより、奥向でおこなわれる正室と奥女中による諸儀式の一連の流れや、奥女中相互の仕事の連携ぶりなどをイメージすることも可能となる。
 一方、一関市立博物館蔵「宣寿院六十画図」は、一関藩田村家6代藩主宗顕正室かね(1793〜1855)の還暦祝の模様を描いた画図であるが、祝宴が催されたと思われる江戸中屋敷奥向の座敷の構造や意匠、また儀礼における演出に推察を加えるだけでなく、当主夫妻と奥女中の儀礼時の姿も推察できそうである。

(2)奥女中の髪型と衣装
 男性武士にはその身分・格式の序列の標識となる衣装が定められている。将軍および大名の姿を残す肖像画や、日常の姿を映した絵が少なからず伝来し、上記の点を考察できる。これに対して奥向の女性の化粧と髪型、衣装の特徴を知る史料として、正室については同時代の肖像画が残るが、仙台藩伊達家の場合は、歴代当主夫人の肖像画が揃って伝来し(仙台市博物館所蔵)、正装すなわち儀礼時の姿を推し量る資料として貴重である。
 楊洲周延による浮世絵「千代田の大奥」は明治半ばの作品群であるが、旧江戸城大奥女中によるヒアリングをもとに執筆・刊行された『千代田城大奥』の情報に基づくものとされ、映画やテレビドラマで江戸城大奥を描くうえで重宝されてきた。(パブリックドメイン美術館「浮世絵千代田之大奥」で閲覧可能)。創作性の強さを疑いえない部分があり、歴史資料としての分析に慎重さを要するが、大奥の年中行事における将軍夫人と奥女中の衣装と髪型の様式や、化粧のありかたなど知る資料として、検討の余地があろう。
 一方、藩政文書の一群にも奥女中の姿を映した史料を見出せる。前述した「宣寿院六十画図」は一関藩田村家文書のなかにあるが、これと関係して一関市博物館には近年、藩校の教授により描かれた「宣寿院様在所御下之節御遊覧毎所真写」と題した画帳が寄贈された。宣寿院に従い江戸から一関に下った奥女中たちの城内外での姿が注目される(菊池(柳谷)慶子「大名家正室の領国下向と奥向―一関藩田村家宣寿院の事例を中心に―」(『東北学院大学論集 歴史と文化』52号 2014年)。
 奥女中の衣装・髪型の規則を記す史料として、仙台藩伊達家文書「御奥方格式」(仙台市博物館所蔵)は一級史料である。式日の衣装を定める巻八には、たとえば上級女中である御年寄と若年寄について、綸子の打掛を着用し、額に眉を描き、髪はすべらかしに長髢を付けるなど、具体的で詳細な規則を記している。巻三「衣服制之事」では、式日以外で全般的な役職の衣服の規則がわかる。奥女中の衣服と髪型・化粧の復元に最適な史料であるだけでなく、当家の格式や表の武士との比較などの視点をもつことで、ジェンダーを論じる材料にもなろう。

(3)奥向が担う出産・養育、教育役割 
 秋田藩佐竹文庫(秋田県公文書館所蔵)の一群には、藩主正室の懐妊記録である「御前様御妊娠留書」をはじめ、子女の懐妊から誕生後の儀礼をとどめる記録類が複数伝来する。藩政中期の改革政治の担い手として知られる9代藩主佐竹義和に関しては、『御亀鑑』(第一巻 江府一)に誕生以来の養育に関わる記事が収載されているが、こうした記事は従来、生育儀礼の検討に使われてきたくらいで、他に分析の観点を見出されてこなかった。
 世継ぎの出産、養育は大名家の存続に関わる当家の重要事である。近世中後期の大名家では3歳以前の子女の死亡率が高く、そのため相続の危機的状況が生まれていた。それだけに奥向のスタッフの配属、選定、スタッフ相互の連携の姿、養育役割が遂行される経過は検討されるべき問題であろう。
 文化9年7月に誕生した佐竹義和の嫡子雄丸の養育体制を「雄丸様御誕生留書」によってみると、懐妊を祝う着帯の儀式ののち、誕生月の1か月前には養育部屋が建設され、「御出生様御付女中」すなわち養育スタッフとして、奥女中と乳母を併せて11人があらたに採用され、引っ越しがおこなわれた。出産時には、子安姥・腰抱姥・子安姥下女・御乳母・むつき洗が雇われている。この養育スタッフは誕生儀礼の場に列席しており、その後の養育体制の動きも知ることができる。
 幼少時の世話だけでなく、藩主に育て上げる教育に、生母である正室や、後家の祖母の果たした役割もあった。これを知る手がかりの一つは書状(女筆)にある。7代藩主重村側室正操院は、血筋の孫斉宗に対して、藩主としての心得を諭す姿が書状の文面からうかがえる。多数の書状が残るが、一例として文化10年、17歳にして藩主となり、初入国を終えた斉宗に対して、上府の途上で正操院が送った手紙(『伊達家文書』2912号)には、無事に帰国を果たし、領内の末端まで評判がよく、安堵したことを述べた後に、「それニ付ても、猶随分随分御心かけ遊ハし、御意もはきはきと遊ハし、それそれ江御意被下候得者、誰々有難そんし上候ものニ御座候まま、もはや御十八ニも成らせられ候御事、いついつ迄も御若年様之やうニハ、人々も存不申候まヽ、くれくれも御意之所、御奉行はしめ、よう御はなし等も遊ハし候様ニと存上奉候」という一文がある。これは単に祖母の孫に対する心情の吐露で終わらせるものではないであろう。斉宗の父(斉村)・嫡母(鍇姫・信証院)の早世ののち、残された血筋の祖母として、教育役割の責務を自覚して与えた訓戒として読み取れる。

(4)奥女中の文通役割
 役方の奥女中の仕事の一つに、正室の意を受けて将軍家大奥や当家の姻族・一族の奥向と書状をやりとりする文通役割がある。このため役方トップの老女をはじめ、上級女中たちは、特異な女筆の書法(散らし書き・撥ね文字・文体等)を身に着け、日々少なからぬ数の書状を書いていた。
 一関藩田村家文書のなかに、当家の老女たちが本家である仙台藩伊達家の老女との文通にさいして作成した書状の下書き帳面が伝来する。「御本家様御老女江御文通下書」「御本家様御老女江御文通下書覚帳」「御本家様御老女江御文通下書覚帳」などと題されたこれらの帳面は、定型的かつ実用的な例文集としての便宜性を備えており、その後長らく文通のマニュアルとされたことを確認できる(前掲、菊池「「大名家正室の領国下向と奥向―一関藩田村家宣寿院の事例を中心に―」)。女筆については本研究会のメンバーである福田千鶴氏が第2回研究会で「近世女筆学の構築に向けて」と題して報告され、要旨が『日本列島社会の歴史とジェンダー ニューズレター』第2号に掲載されている。福田氏が指摘されるように、女筆消息からリテラシーの獲得に向けた女性たちの努力や消息自体の変化を明らかにする必要があり、その前提となる解読が進められなければならない。老女たちの日ごろの日課には、マニュアルに基づきながら季節の挨拶と用件を適格に伝える書状の技術を磨き、奥向の交流を担う姿があったのである。
 一方、伊達家の奥向は江戸城大奥との間で、定期的に時候の挨拶と献上品をおこなう関係が構築されており、これを担う奥女中は「女使」と呼ばれた。「女使」は御三家・御三卿のほか、将軍姫君が嫁いだ大名家など、将軍家と由緒の築かれた家だけに許される特権的な交流任務である。その具体的な姿は松崎瑠美氏が「大名家の正室の役割と奥向の儀礼」(『歴史評論』747号、2012年)ほか複数の論文で検証されているほか、柳谷も「大名家『女使』の任務―仙台藩伊達家を中心に」(『女性官僚の歴史』吉川弘文館、2013)で検討したことがある。
 伊達家の12代斉邦正室綵姫に関する記録である「天保十二年五月御記録」(明治大学刑事博物館所蔵)などには、年間の儀礼において「女使」を務めた奥女中の口上、書状のやりとりが知られる。また正室の代理となり江戸城に登城する女使一行の隊列や衣装などに触れた史料もあり、その姿の復元は十分に可能である。登城行列は大名家の権威を可視化するもので、一般的には乗物(蒔絵・鍍金金具・緞子)・長刀・挟箱(2荷1組)・歩女(紗綾や縮緬に伊達染の小袖)を伴うが、伊達家の隊列は当初から地味な成り立ち(青漆の乗物、長刀・挟箱はなし、歩女は木綿着用)を特徴としたことも知られる(『伊達家文書七』2548号)。 
 最後になるが、奥女中が就任にあたり提出する「奥女中誓詞」の紙質は、弘前藩津軽家や伊達家のものを見る限り、表の男性役人の起請文と比べて劣る。比較してその事情を探ることもジェンダーの視点の一つであろう。
 以上、本報告は史料の断片的な提示にとどまったが、当日は学際研究の場にふさわしい多くの示唆を頂戴した。記してみなさまに心より御礼を申し上げたい。

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◆10日(日) 9:00-14:00
9:00-14:00 研究報告                              

報告2 中世前期の貴族社会における女房 ―男女之栄―
伴瀬明美(東京大学史料編纂所)


 女房とは、天皇および諸院宮・(女御などの)キサキ、摂関家等の貴族家などに仕える侍女であるが、女房たち自身も貴族階層の出身であり、貴族社会の一員である。
 女房に関しては、摂関期の女房の存在形態を総合的に明らかにした吉川真司氏の研究があるほか、院政期以降、中世前期の女房については、女院制度を人的に支えたものとしての女房の存在形態を五味文彦氏が明らかにしている。
 本報告では、女院研究から離れて、改めて中世前期の女房について考えることとし、中世前期の貴族社会において女房として出仕することの意味に焦点を当て、摂関期の女房との違いに留意しつつ、藤原定家やその姉が残した豊富な記録をもとに検討した。7.jpg
 宮内庁書陵部蔵『砂巌』巻五所収「藤原俊成男女交名」(以下「砂巌交名」)は、俊成の子である定家自身が作成したとされる俊成の子どもたちの交名である。男女を通じて一世代の全子女が記されている貴重な事例であり、とくに女子に関する記述が詳しい点も重要である。『尊卑分脈』では俊成の女子として記されるのは4人、そのうち女房としての出仕が記されるのは1人のみだが、「砂巌交名」よれば女子は11人で、全員が女房として諸院宮に出仕していた。これによって、『尊卑分脈』の女子に関する記述が相当省略されていることが改めて確認されただけでなく、女房としての記載がなくとも女房であったケースがかなりあるであろうことがわかる。
 次いで、この「砂巌交名」と『明月記』本記にみえる記事をあわせて俊成の娘たち11人の交名(以下「明月記交名」)によって、俊成の娘たち11人それぞれについて女房出仕その他の事蹟を整理したところ、出仕先は八条院、後白河院、好子内親王、建春門院、式子内親王、高松院、上西門院、承明門院と様々で、出仕先の変更もあり、宮仕え後に結婚し子を産むケースも多いことなどがわかった。そして重要なのは、藤原定家がこれらの交名において、俊成女子11人全員が禁色をゆるされ、数多くの出仕先において重用された女房であったことに重きをおいており、それを誇るべき、記録に値することとして記したと考えられることである。
 この「砂巌交名」からうかがえる女房出仕に関する意識は、摂関期の宮仕えをめぐる言説とは大きな差異がある。摂関期において女房として出仕することは、女房文学のなかで女房たち自身によって、ともすれば軽く見られ、不本意であることとしてしばしば語られた。『栄花物語』には、女房としての出仕が恥であったり、零落の象徴とされるようなエピソードが多くみられる。
 一方、中世初頭において、女房としての出仕はどのように意識されていたかを『明月記』本記に見ると、定家は長女が禁色を許された日の日記で、その喜びを前年に長男が蔵人頭に補任されたことと並べて「不肖之身、男女之栄、分已以満足」と記し、父俊成についてはさらに「女子禁色、男子昇殿」という恩寵に預かっていたことを記している。男子が官人として出仕するように、女子は女房として出仕し、重用され、栄達を遂げることを家の名誉とする意識が読み取れる。
 摂関期からの意識の変化の背景には、藤原道長・頼通による度重なる良家女子の召し出し、院政期における後宮秩序の変化、さらに荘園制の成立にともなう貴族家の経済基盤の変化など、摂関期から院政期にかけての女房をめぐる社会関係の変化があり、それによって、女房としての出仕が貴族女性の生涯における一般的なあり方になっていったと考えられる。
 そうした段階ではもはや出仕するかしないかではなく、どのような形で出仕するかが重要になる。定家の姉が記した『たまきはる』から、皇太后(後に建春門院)平滋子の女房集団の秩序のあり方をみてみると、主人との関係や家格による上臈・中臈・下臈の区分、それによる祗候場所、その設え、装束の差異、禁色といったもののほか、女房名、乗車の順序などの秩序指標が存在したことがわかり、それが乱されることは女房本人とその家族にとって重大な問題であったことがわかる。女房集団において多様な秩序指標がみられたのは、官位によって秩序づけられる男性官人とは異なり、女房の多くが無位無官であったことが関係していると思われる。ここまでの厳格な秩序は、『紫式部日記』や『枕草子』からうかがう限り摂関期にはみられない。
 摂関期とは異なる多様な指標による厳格な秩序の存在が、「砂巌交名」、『明月記』にみえる禁色への執着であり、これらが書かれた背景といえよう。さらにその背景にあったのが、家格の確立と思われる。官人(男子)にとって家格にあった昇進、処遇(昇殿等)を受け、極官に上れるかが死活問題であったように、女房(女子)も、家格と女房名や序列がつりあうか、しかるべき処遇(禁色勅許等)が得られるかが家にとって重大な問題となった。男性官人においてみられるように、女房についても上位者の養子となることにより処遇の向上をはかる事例がみられる。女房としての出仕は出身の家と密接に関わるものであった。そのことは定家が自身の娘の出仕に深く関与していることからもうかがえる。
 中世前期の貴族は、男性は官人として、女性は女房として出仕し、それらはいずれも「官仕」(訓は「みやづかへ」)と記された。だが男性が政治行政に携わる一方、女性は(取次等に政治的役割があるとはいえ)基本的には主人の身の回りの世話に従事したのであり、ここに「公に仕える」ことにおけるジェンダーを見て取ることができよう。
 ただし、東アジアに視野を広げると、貴族階級の女性が「出仕」すること自体が東アジア諸王室では異例であることがわかる。中国歴代王朝、朝鮮王朝では女官・宮女は基本的には低い身分であり、多くが不自由身分であった。日本列島における社会集団とジェンダーを考えるとき、女房のあり方は(女官についても)興味深い材料の一つではないだろうか。


報告3 形成期の皇祖観をめぐって
義江明子(元帝京大学)


 6〜7世紀の女帝を輩出した王族集団のありようと、双系的社会を土台に父系皇統観が形成される過程を考えることが、本報告の課題である。
 古代女帝については、通常の皇位継承困難時に「仮即位」したとする女帝「中継ぎ」説が、長らく通説だった。これは、実際の統治機能は男性が担ったとする女性非統治者説でもある。しかし1990年代末以降、性差を前提としない研究がすすみ、男女ともに年齢と血統的条件を満たし資質のある者が、群臣に推戴/承認されて即位したことが明かになった。現在では、男女ともに実質的統治者であることは、学界の共通理解となっている。その上で、皇位継承の上ではやはり父系継承のための「中継ぎ」とみるべきとの考えも根強い。他方で、古代の基層の親族原理が双系的なものだったことは、現在、広く認識されている。支配層から次第に父系に傾斜しはじめるが、7世紀においては「母からの皇位継承」も実態/観念においてあり得たのではないか。父系皇統として記述されている記紀を基本史料としつつ、「母からの皇位継承」をいかにして検出できるか、皇極=斉明とその子たちを焦点に考える。8.jpg
 舒明と皇極の間に生まれた天智・天武兄弟の子孫が奈良・平安時代の皇位を継承していくことから、舒明の段階に画期を認める「舒明王統」説がある。雄略の伝承歌の次に舒明以降の御代の歌を掲げる『万葉集』巻1の時代観も、それを裏づける。しかし、7世紀後半の史実としては、歴代遷宮の習わしを超えて舒明「岡本宮」に重層して築かれた飛鳥宮も、舒明以降の天皇陵に特徴的な八角墳も、皇極=斉明が作り出したものである。また、7世紀末〜8世紀初には、斉明を皇統権威の起点として重視する意識が認められる。
 皇祖観としては、どうだったか。「皇祖大兄」:彦人(舒明の父で、皇極の祖父)、「皇祖母尊」:皇極=斉明、「皇祖母命」:糠手(舒明の母)、「皇祖母命」:吉備(皇極の母)と、『書紀』には「皇祖」を冠する四名の男女が見える。七世紀前半〜半ばにかけての人物である。ここにみられるのは、「皇祖大兄」を起点とする父系直系皇統観ではなく、皇極母子を起点とする三〜四世代深度の、逆三角形をなす双系的系譜意識である。
 「大兄」は「母を同じくする同母子単位集団の代表」〔荒木敏夫〕である。複数の大兄が「王位継承有資格者」となり、互いをライバルとして争った。従来は注目されていないが、この同母子単位には「大兄」とともに、その母(キサキ)である女性尊長「御祖」(ミオヤ)の存在が不可欠である。「皇祖大兄」と「皇祖母」はたんなる親族名称ではなく、「皇祖」と位置づけられた特別のオオエ/ミオヤをさす尊称とみるべきだろう。
 『旧唐書』によると、中国皇帝の冊封下にあった新羅善徳王(642-645治世)は国人から「聖祖皇姑」の号を奉呈された。この「皇」は「仏教的な神聖観念」を表すという(盧泰敦)。現在、君主号としての天皇号の成立は天武朝とみる説が有力だが、「皇」(スメ)観念の成立と天皇号の成立は切り離して考えるべきである。『古事記』が穴穂部王(欽明の子、用明の異母弟)について記す「須売伊呂杼」(スメイロド)は、欽明の男女四子が相ついで即位する世襲王権成立の画期において、「スメ」観念の萌芽したことを示唆する。皇極は同母弟孝徳への史上初の譲位に際して、「皇祖母尊」(難波宮出土木簡によれば、当初は「王母」か)の称を奉呈された。この特別の尊称を起点に、四名の「皇祖」称が双系的「皇祖」観として(斉明時に?)成立したとの見通しを、仮説として提示しておきたい。
 舒明と皇極=斉明の子は、中大兄(天智)・間人(孝徳のキサキ)・大海人(天武)の三名である。『万葉集』巻1の3番・10番題詞にみえる「中皇命」は間人をさす。「中」は二番目の意味で、男女混合配列で間人は第二子である。『古事記』の天皇系譜が示すように、6〜7世紀は、男女の「王」(ミコ)を、男女混合配列で、同母子単位で書き上げるのが通例だった。7世紀後半に王族称号の序列化がすすみ、天皇の子は「皇子」「皇女」、他の王族は「王」「女王」の称号が定まった。処遇差の制度化を伴う、ジェンダー表記の成立である。天皇号の成立と連動する「皇子」(ミコ)「皇女」(ヒメミコ)の略記である「皇」は「ミコ」だが、それ以前の「皇」字は「スメ」として別個の解釈が必要である。「中皇命」は「ナカツスメラミコト」(中天皇)でも「ナカツミコノミコト」でもなく、「ナカツスメミコト」と訓むべきだろう。「スメミオヤ」(皇極)の尊貴なミコたちの二番目の意味である。
 大海人(天武)を、『書紀』は「大皇弟」等と表記する。中大兄(舒明の子として、異母兄古人大兄に次ぐ二番目の大兄)の弟としての「皇弟」(スメイロド)の地位を示す美称である〔仁藤敦史〕。同時に、「皇祖母尊」(スメミオヤ)の子で、「中皇命」(二番目のスメミコ)につぐ「皇弟」(スメイロド)でもあり得るではないか。
 敏達〜皇極=斉明まで、6〜7世紀の大王たちは、日常的な絆/親愛感に基づく母子同葬を望むことが多かった。だが持統は、若くして亡くなった息子草壁とではなく、前王天武との両君同葬を選んだ。持統3〜5年には歴代天皇の確定と同時並行で歴代陵墓(に相当する古墳)の選定がなされ、この選定作業は8世紀前半まで続く〔北康宏〕。6〜7世紀の男女大王はほぼ40歳以上で即位し〔仁藤敦史〕、これは、村落社会の年齢秩序とも対応するらしい〔田中禎昭〕。697年、持統の譲位による15歳の孫文武の即位は、こうした長らくの慣行を破る出来事だった。これを可能にしたのは、律令国家体制の確立と皇太子制の成立である。皇極母子を起点とする双系的皇祖観から記紀にみられる父系直系皇統観への転換は、持統朝から8世紀前半にかけてなされた、と見ておきたい。
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2017年09月08日

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター5号

気がつけば9月となり、暑さも和らいで参りました。皆様変わらずお過ごしでしょうか。「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第5号では、5月6日(土)に行われた第4回研究会「近世の女性労働を考える」の報告および、7月2日(日)に開催された「国際研究集会 歴史展示におけるジェンダーを問う」と、前日に開催したエクスカーションの報告を掲載いたします。
研究会、研究集会ともに盛会のうちに終えることができました。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
本記事と同内容のPDF版はこちら→日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター5号


第4回研究会 「近世の女性労働を考える」
2017年5月6日 10:30―17:00 (於 国立歴史民俗博物館大会議室)

◆10:30−12:00 資料熟覧                               
国立歴史民俗博物館には、近世、近代にかけての海女の実態、表象を考察する上で重要な資料が所蔵されている。午後の研究報告に備え、メンバーでそれらの資料を熟覧した。

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◆13:00−17:00 研究報告                               
報告1 近世に女商人はいたか?
牧原成征(東京大学大学院人文社会系研究科)


近世に女商人はいたか、という設問はナンセンスに聞こえるかもしれないが、商人の名前帳・仲間帳の類をいくら繰ってみても、女商人の存在はほとんど見えてこないのは事実である。しかし全くいなかったと考えるのも不自然で、女も何らかの形で商売に携わっていただろう。実際、藩政等の記録類では、百姓や町人の妻女が、近隣の市場で立売・振売している様子を示す史料が散見される。それについて管見の史料をいくつか挙げて検討した。
 その上で、盛岡城下の田町(三戸町)の市場の慣行・由来を記した記録を検討した(「御城下市之記」、横川良助「見聞随筆」『岩手史叢第六巻』岩手県文化財愛護協会、1983年、404〜412頁)。この史料は、17世紀末期に、田町の市場の優越的な地位が他の町に脅かされるようになったことを背景・要因として作成されたものである可能性が高く、同町が盛岡の六斎市の起源であり、もともとそれを独占していたとするような虚構を含むものの、全体としては同町の市場の慣習をよく示す、興味深いものである。
たとえば、おそらく町奉行所が足軽を4人、市の警固として派遣しており、2人は市の警備を、2人は市日に他町で見世店を張っていないかを取り締まった。町役人(検断)は、市場の「中見世」(道路中央部)を用益する商人から1人3文の「立余銭」を徴収し、警固衆の賄いに充てた。屋敷所持者は、主として屋敷前の「見世下」とよばれる空間を商人に貸して見世賃を取ったが、その場所割りをめぐってもめごとがおき、品目ごとに商人の「座列」を定めたという。
その「座列」を描いた図が掲載されているが、そこで最も下座・市末に「女町」が配されている。記録の説明に曰く、女たちは、御組(足軽クラス)の手廻り(家族の意)、町方の小さき者の手廻り(家族)が出る。女町は女だけなので理不尽の者もいるだろうと、その警固に(町奉行所の警固衆とは別に)御組の隠居が出て、油・元結・白粉・紅などを商売する。彼らは「立余銭」は出さない。女共の立売からは3文ずつ立余りを取り立てている。
このように「女町」とは、足軽・小前町人層の妻女が「見世下」に売り場を出すことができる区域を指す。市場の「座列」を定めた際に、最も下座・市末に、女だけの売場・座が設けられたのである。ここを警固する足軽の隠居衆は女向けの商売物を売っているが(収益が警固料に相当するということか)、女商人たちは品目によって区別されたわけではなく、性別によって区別・差別され、市末におかれた。ただ、他の区域(座)に女がいなかったわけではなく、荷宿など家族・奉公人を伴う営業もあった。
この史料等を全体として読み解くと、盛岡城下では藩による町割、市立て(市日の調整・強制、見世店の禁止)、制札交付、警固衆派遣の下で、町は御用品調達、品々(相場のことが多い)書き上げを担い、「座列」、見世賃、立余銭による警固衆への振舞等を独自に定めた。城下町ゆえの足軽層の存在・家族形成とその零細性によって、女も商いに出ることが多く、足軽の隠居衆の警固とセットで、「女だけの売場」が町レベルでの秩序(慣習)として顕現(実現)したと考えられるのではないか。
時代を問わず、女性も最寄の市場へ出て商いをすることは多く、中世には京都でも女商人が見出されるが、隔地間の商いには治安面などの制約があった。近世には全国規模で形成された城下町を中心に治安が改善し、市場が集中し、問屋・仲買・小売の分業が進んで、商売(振売・小売・賃仕事)を女でもそれまでよりは容易・安全にできるようになったであろう。ただ、零細で立売に従事することが多く、隔地間ではなお治安の制約があって女の専業的な商人はそもそも少なかった。
また、商人のなかでも特権化・仲間化・公認されるのは収益性の高いものであり、振売などは職分の排他性が弱くそこから排除された。仲間を結ぶ、公認される局面になると、男であることが暗黙の条件になる(女が排除される)ことも多かっただろう。城下町形成期に奉公人など男子労働力が集中し、政策的にその確保が重視されたことも影響を及ぼした。隔地間の移動では女手形が必須とされたことも制約要因になった。
さらにいえば、「兵」=男子戦闘者のみが権力を握り、農=「作人」を支配するという、ジェンダー・バイアスの強い国家体制のなかで、町人・商人の仲間や権利のみが例外として、その影響を受けなかったはずはない。今後、さらに検討してみる必要がある。


報告2 ジェンダーの観点から見る歴史上の海女の生業と表象
塚本明(三重大学人文学部文化学科)

海女とは簡素な道具のみを持ち、素潜りで海底の貝や海藻を取る女性漁業者のことである。日本で最も盛んな鳥羽志摩の海女技術が2017年3月に国の重要無形民俗文化財に指定されるなど、近年日本の海女文化に対する関心が高まってきた。これは2008年頃から始まった、石原義剛・海の博物館館長を中心とする取り組みの成果である。韓国との学術交流や「海女サミット」開催、海女研究会の設立、海女振興協議会の組織化などを進めてきた。塚本はこれらの活動で海女漁を歴史的・文化的に価値付ける役割を負っている。
 男の潜水漁は世界各地で見られるものの、女性の素潜り漁文化は歴史的には日本と韓国済州島にしか存在しない。朝鮮半島では漁業を低く見る傾向が強く、儒教道徳からの女性の社会的位置付けも影響し、流刑の地として虐げられた歴史を持つ済州島にのみ海女漁が存在した。女性の服装や就労制限の厳しいイスラム圏、弱者保護と貴婦人への献身を説く西洋の騎士道文化圏では、海女漁の成り立ちは難しい。女性が外で肌を晒して働く形態について、世界中で日本のみ、タブーが存在しないのではなかろうか。
 潜水による鮑漁は原始社会に遡るが、この段階では男女とも従事していたと考えるのが自然であり、女性中心の漁と認識されるようになるのは8C頃からだと思われる。宮本常一氏が指摘するように、漁業技術の進展に伴い男は遠洋に出漁するようになり、残った女性が磯場の漁業を行う形で分業が進んだ。だが志摩半島では、リアス式海岸を持ち黒潮が蛇行するために遠洋漁業や網漁が十分に発達し得ず、一方で参宮文化に伴う漁獲物需要という社会的要因も相俟って、男女協働の集約的な海女漁が発展する。
 男が舟を操り女が潜る「フナド」は、日本特有の、最も発達した海女漁の形態であるが、『枕草子』286段「うちとくまじきもの」にその様子が詳細に描かれる。清少納言は船上の男を「あさまし」と痛烈に非難するものの、皮下脂肪が厚く寒さへの耐性に優れる女性が潜り、腕力の強い男が舟を操り、浮上する海女を棹などで一気に引き上げるという、身体能力に応じた男女分業なのであった。
 海女は鮑以外に海藻やタコ、エビなど多様な獲物を採るが、季節や天候に応じて農作業や獲物の加工、沈没荷物の引き揚げ、そして山仕事など、小規模で多様ななりわいを営んだ。特に柴薪を確保することは、潜水の前後に体を温めるために必須であった。漁村に生きる女性の働く形態の一つが海女漁であり、専業的な職業ではないのである。
 参宮文化のなかで大量に流通した熨斗鮑は海女達によって製造され、志摩で入札に掛けられ、伊勢の熨斗商人が買い付けに来た。加工・保存することで有利な取引となっている。この点は晒し草に加工して上方商人と大規模な取引をした海藻類も同様である。
 志摩海女は古くから磯留め期間や未熟な海女の修業機会として、房総半島や熊野灘へ出稼ぎに赴いていた。江戸時代後期には中国向けのテングサ需要拡大により広域化するが、明治中期以降には侵略的な国策に基づき、朝鮮半島へ進出するようになる。志摩漁村では当初は自ら船を仕立てて男と共に赴いていたが、次第に九州北部や大阪等の商人に雇われて出漁するようになった。朝鮮海の漁業資源は豊饒で、商人らは莫大な利益を得た。海女が商人に販売する代価は極めて安価だったが、その漁獲量の多さから、多額の収入を得た。
 だが、朝鮮出漁は志摩漁村の生産構造に大きな変容をもたらした。大正年間には、海女を中心に「漁業専業化」と農業を放棄する状況が進行する。養女を取ることによる女性人口の急増も認められる。田畑は荒廃し、加工業等も衰退し、海女は商人に雇われ、鮑を獲るだけの漁業者に化した。なりわいの規模と収入は大きくなったが、生業構造は単純になった。そして朝鮮海での鮑漁は乱獲の影響で間もなく衰退する。出稼ぎ漁は資源管理的な発想を伴わず、乱獲に陥るのは必然である。そしてそれは、本来の海女文化ではない。
 明治末期から大正期にかけて、三重の地元新聞「伊勢新聞」には、志摩では女子の出生が歓迎され、他所から養女を迎えて海女に仕立てること、「男一人を養えない者は女ではない」などとして、稼げない海女は結婚できず、男は怠惰に暮らすことなどが報道されている。近代の聞き取り調査に基づく民俗調査でも強調される志摩の習俗であるが、不自然でいびつな社会構造である。だが、こうした現象は江戸時代の古文書史料からは確認できない。明治後期以降の「漁業専業化」の進行に伴い、新たに生じた現象なのであった。
 海女は古くから万葉集を始め想像のなかで詩歌に詠われ、浮世絵に描かれた。獲物のひとつとしての宝珠と海女とが結び付き、藤原不比等が海女の玉藻に頼み竜宮から宝玉を取り戻したという伝説も、浮世絵の題材になった。そこには妖怪として恐れられた蛸や龍と戦う海女の姿が描かれる。海女は、海中にある竜宮城を知り、異界の生物と戦う「異能」の存在としてイメージされた。
 参宮文化のなかで海女に潜水漁を演じさせる事例があるが、見物される海女は近代以降に多様に展開する。都市の見世物小屋では曲芸を演じ、鯉を掴まえ、銭を乞うという卑俗な形態のショーが栄え、各地で開催された博覧会の海女館は人気のパビリオンとなり、海女漁が行われる漁村で金銭を払って見物することも行われた。御木本幸吉は真珠養殖場でアコヤ貝採取に海女を雇用したが、明治末年に二見浦にて明治天皇皇后相手に実演するなど、要人相手のショーを手掛けた。明治末から大正期に掛けて、観光土産や絵葉書などで海女と真珠が盛んに登場する。このように海女が人気を集めたのは、海を眺望する施設が作られ、海水浴が夏の娯楽として栄えるなど、「海の時代」を迎えたことが背景にある。近代に見世物となった海女は、決してエロチックなショーとしてではなく、海中を自由に泳ぎ回るという特殊な能力を持ち、そして自然界から食料を採って来るという、根元的な「働く」形態であることが魅力となって、人気を集めたのだと考える。



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国際研究集会「歴史展示におけるジェンダーを問う」
2017年7月1日 12:30−17:00 エクスカーション
2017年7月2日 10:00−17:00 国際研究集会(於 国立歴史民俗博物館ガイダンスルーム)

エクスカーション                              
研究集会前日にエクスカーションを開催し、海外からお招きした先生方と共同研究のメンバーで、江戸東京博物館、アミューズ・ミュージアムを訪れました。

◆12:30−14:30 江戸東京博物館 見学
 常設展を見学し、トノムラ氏の発表でも触れられている大名行列に関する展示コーナーや、寺子屋復元における手習師匠の人形の性別についてなど、ジェンダーの観点から再検討すべき課題を探索しながら、見学を行いました。

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◆14:30−15:00 浅草 見学                              
浅草寺、仲見世通り周辺を見学しました。近世の浅草の様相を横山氏が解説し、その遺構を辿りました。

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◆15:00−16:30 アミューズ・ミュージアム 見学
「BORO 美しいボロ布展 〜ボドコ、生命の布〜」を見学しました。田中忠三郎によるボドコのコレクションを中心に展示が構成されており、作品は触れることが可能でした。一般女性の手仕事による美術工芸を展示するというコンセプト、展示方法ともに驚きと学ぶべきことの多い展示でした。

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国際研究集会                         
2日、国際研究集会「歴史展示におけるジェンダーを問う」が開催されました。
本研究発表の予稿集はこちら→クリック

◆10:00−10:10 開催趣旨                              
国際研究集会「歴史展示におけるジェンダーを問う」を開催するにあたって
横山 百合子(国立歴史民俗博物館)

2016年度に開始した歴博基盤共同研究「日本列島社会の歴史とジェンダー」では、これまでの研究を通して、博物館における研究・資料収集・展示と、来館者が展示を通して理解する歴史像の両面で、歴史展示に表象されるジェンダーの重要性を確認してきました。
 本研究集会は、このような博物館業務全般にわたるジェンダー視点導入の意義、方法、その成果を国際的視点から検証し、「歴史叙述としての展示」へのジェンダー視点導入の実践的方向性について考えるもので、横山氏から開催趣旨の説明がありました。

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◆10:10−14:40 報告                                 
報告1 アメリカにおけるジェンダー史研究状況と博物館展示
トノムラ ヒトミ(ミシガン大学)

トノムラ氏は、はじめにジェンダー概念の変遷やその複雑性について解説され、博物館展示においてはジェンダー概念を如何に示すか、そして、展示をジェンダーの観点から検討すると何が問題として浮かび上がるのかを、歴史展示に留まらず、自然博物館などの事例も取り上げて提起されました。また、英語圏の歴史叙述において近年注目されている「Intersectionality」の概念についても紹介され、日本史への適用の可能性についても触れられました。

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報告2 博物館の資料収集・展示におけるジェンダー:台湾での経験から  
黃貞燕(國立臺北藝術大學博物館研究所)

黃氏は、台湾で2004年に性別平等教育法が成立して以降の博物館におけるジェンダー研究の現状と、国立台湾歴史博物館におけるパブリック・ヒストリーの研究、資料収集、展示と教育への取り組みについて報告されました。台湾では、大衆に着目したパブリック・ヒストリーによって、博物館におけるジェンダーの課題の捉え直しが行われ、その結果、歴史のなかの女性、あるいは女性の歴史観をどのように記録し、描くか再考を迫られました。その結果、他の博物館とは異なる独自の資料収集と展示が行われることになり、その実例を紹介されました。

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報告3 包摂の歴史―シンガポール国立博物館におけるケース・スタディ―
リー・コー・リン(シンガポール国立博物館前館長)

リー氏は、1984年にシンガポール国立博物館が歴史ギャラリー設置のため大規模修繕を行った際に、大幅な展示変更を実施しました。シンガポールの歴史はイギリス植民地としての建設および独立の時期を起点として語られてきましたが、リー氏たちは新たなジオラマ展示によって、その起点を600年ほど遡ぼらせ、新たな歴史像を提示しました。さらに、歴史は一本の線に沿って作られるものではなく、シンガポールがジェンダーを含む多様性の中で歴史を築いてきたことを訪問者に示すために、ギャラリーの空間構築に工夫を凝らし、訪問者が公式に語られてきた歴史の展示とパーソナルな物語の展示を無意識に行来するよう構成したことを紹介されました。

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報告4 日本の博物館におけるジェンダー表現の課題と展望―歴博展示に触れつつ―
松本直子(日本学術会議連携会員、岡山大学大学院社会文化科学研究科教授)

松本氏は、考古学展示・表象における現代的ジェンダー・バイアスを問題提起されました。当時の性役割やジェンダー間の関係については不明な点が多いにもかかわらず、女性は料理などの家事や土器づくりをしている様子が多く表現されるのに対して、男性はしばしば狩猟や漁労などの活動をしている様子が表現され、現代の特別分業に基づく核家族のステレオタイプが反映されています。今後の博物館には、ヒトの社会・文化の多様性、ひとつの文化における個人の多様性を見据えた復元が求められると提言されました。

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◆15:00−15:20 コメント
コメント1 小島道裕              
コメント2 長志珠絵
それぞれの報告を受けて、小島氏は、歴博第2展示室「中世」における女性を取り上げてこれまでの「女性史」に言及し、長氏は、ジェンダー視点に立った歴史の再解釈の必要性、そしてそれを実践する場としての歴史展示の可能性などについてコメントしました。

◆15:20−16:50 総合討論                             
報告者、コメンテーター、歴博の藤尾慎一郎氏による総合討論が行われました。参加者からも、報告内容や歴博の展示についての質問が寄せられ、活発な議論がなされました。

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◆16:50−17:00 総括                              
本研究集会の振り返りおよび今後の課題提起を久留島典子氏が行い、盛況のうちに閉会しました。
本研究集会の内容は、2018年度に『国立歴史民俗博物館研究報告』等で発表する予定です。



コメント                            
共同研究メンバーの長志珠絵氏、伴瀬明美氏から、本研究集会へのコメントをご寄稿いただきました。以下に掲載いたします。

伴瀬明美(日本学術会議連携会員、東京大学史料編纂所准教授)
国際研究集会「歴史展示におけるジェンダーを問う」は、開催趣旨に始まり、国内外からの四つの報告、それらをふまえての総合討論、総括という構成で行われた。
横山百合子氏による開催趣旨説明は、本研究集会の開催趣旨を明らかにするのみならず、共同研究そのものの意義と目指すところを改めて確認するものでもあると感じた。
一人目の報告者であるトノムラ・ヒトミ氏は、ジェンダー史の展開とその成果を述べるにあたり、まず、大方の日本史研究者にとって難解であるジェンダー概念の誕生の背景と経緯について語源にまで遡って解説し、日本で普及しづらい理由、日本史における「ジェンダー」と「gender」との違いなどを指摘した。第一人者による解説はわかりやすく示唆に富み、熱心にメモをとる参加者が多くみられた。マンチェスター博物館におけるキュレーターたちの挑戦の紹介と共に、本研究集会の冒頭にふさわしい報告であった。
次いで黄貞燕氏から、既に研究・資料収集・展示業務全般にわたりジェンダー視点を導入してきたという台湾の博物館の現状が報告された。驚かされたのは、台湾には「博物館」を冠した研究所が三つもあるということであった。ジェンダー視点の取り入れを促進する重要な要因となったのは、こうした学術的背景のもと博物館学研究の進展に伴いジェンダーに関わる研究も重視されるようになったことに加え、多元的な民族・文化の複合共同体である台湾において社会の包容性と文化の平等性を促進する社会活動の一環としてパブリック・ヒストリーが政府主導で推進され、そのなかで博物館におけるジェンダーの課題の捉えなおしが促されたことだったという。近年新設された国立台湾歴史博物館は、パブリック・ヒストリーを軸とする博物館として位置付けられ、ジェンダーと歴史記録に関する課題への積極的な取り組みが実践されていることが紹介された。博物館学の充実、社会の多様性に対する認識といった日本の現状との差異、はたまた「歴史学」とパブリック・ヒストリーの緊張関係など、多くの興味深い論点が示された報告であった。
リー・コー・リン氏によるシンガポール国立博物館におけるケーススタディを中心とした報告もまた刺激的なものだった。リー氏は同館館長(当時)として、標準歴史教科書に即していたシンガポール史の展示をわずか三年の間に一新した。従来、シンガポールの歴史はイギリス植民地としての建設および独立の時期を起点として語られてきたが、リー氏達はその起点を600年ほど遡ぼらせることで、はるかに豊かな歴史像を提示したのみならず、様々な切り口・視点によることで歴史はさらに深く理解できるということを精選されたコンテンツによって実現したのである。こうした試みは―伝統的歴史観を好む人々からの批判も含め―非常に大きな反響を呼んだという。ナショナルミュージアムにおいてかくもチャレンジングでダイナミックな転換が短期間で成し遂げられたということには驚嘆以外の言葉がない。
 最後に共同研究員でもある松本直子氏が、日本の博物館の考古学的表象におけるジェンダー表現の課題を報告した。復元展示におけるジェンダー表現の偏向はいまだ大きい(たとえばステレオタイプな核家族の復元イメージが多いなど)にもかかわらず、それを指したる違和感なく「復元」として見ていた自分を省みるに、復元画やジオラマのような視覚的表象は影響が大きいという指摘に首肯せざるをえず、現代の性役割が過去の社会像に投影され、それによる「復元」が現代のジェンダー不均衡を阻む要因となっていることを痛感した。性役割を考古学的に明らかにするのは容易ではなく不明な点が多いが、だからといって(だからこそ)そこを安易に現代的ジェンダーによって埋めてはいけない、という松本氏の見解は、復元展示に関わる人々に共有されるべきものではないだろうか。
総合討論での活発で直截な意見交換ののち、久留島典子氏によって総括が行われたが、そこで強く印象に残ったのは「どこまで明らかにできていてどこまでがわからないのかの明確化を担保にして、できる限り展示に生かしていくことが学問的な前進をも生む」という言葉(大意)である。これは、総合討論に通底していた「展示はいかにあるべきか」という難題に挑むにあたり、重要な手がかりとなるように思われる。
今回の国際研究集会は、スタートして2年目に入った本共同研究が新たな段階へ踏み出すための確かな足掛かりになったと感じている。わたくし個人としても、視野を広げ、研究テーマへの理解を深める貴重な機会となった。
なお、本研究集会前日には国外からの報告者を迎えてエクスカーションが企画され、江戸東京博物館を振り出しに、浅草では観光客でごった返す雷門(残念ながら修補中)・仲見世・浅草寺境内をそぞろ歩きながら、横山百合子氏から浅草寺界隈の近世から近代にかけての変化、今に残る痕跡などについての解説をいただいた。その後、布文化と浮世絵の美術館として開館したアミューズ・ミュージアムへ移動、過酷な環境で命をつなぐため繕いを重ねつつ次代に伝えられていった「ボロ」の特別展を見学し、同館屋上からの浅草一帯の眺めを楽しんだ。翌日の国際研究集会と併せ、たいへん有意義な二日間であった。


長志珠絵(日本学術会議連携会員、神戸大学大学院国際文化学研究科教授)
今回の魅力的な国際シンポジウム「歴史展示におけるジェンダーを問う」では、海外から3人、国内から1人の報告者を招き、極めて興味深い議論が展開された。が、事前に予稿集を拝読したことで私はコメンテーターとしてというよりは、歴史研究を専門とし、他方で歴史教科書や一般教養としての歴史教育に関心を持ってきた文献研究者として逆に問いの空白に改めて気づき驚いた。端的にいえばそれは、なぜ「日本史」の歴史展示の課題としてジェンダーは論じられてこなかったのか?という問題である。
 ともあれまず共有される論点の一つは、歴史の実践としての歴史展示がどういう状況にあるのか、何が課題になるのか、どのように意識されているのか、この点だろう。たとえばトノムラ・黄・リーの3報告ではジェンダー射程をふまえたインターセクショナリティや多元性の重要性がそれぞれの歴史展示の実践によって強調された。
 シンポジウムの報告はまず出発点として、歴史展示を可能とする知の集積のあり方そのものがいかにジェンダーバイヤスにとらわれているのか、この点を問うた。トノムラヒトミ「アメリカにおけるジェンダー史研究状況と博物館展示」は、今日のキュレーターによる調査と実践によって、19世紀半ば、近代国民国家による自然史博物館がすでに収集物段階でオスを中心とするカルチャーにあり、剥製による展示物の体系や学術用語もジェンダーブラインドな体系を前提としてきたことなどの論証と意識化、これらへの対抗展示などの実践を紹介する刺激的な問題提起から始まった。 
 他方、新しい展示はどこに向かうのか。台湾とシンガポールでの国立博物館での2000年代での歴史展示の実践報告を行った2報告では、歴史展示に対する今日の社会の側のニーズをどのようにとらえ、応えるのか。またその社会的な需要に対する国家の側の支援がどうあるべきか、この点が極めて自覚的・意識的であることが痛烈に印象に残った。
 例えば黄貞燕「博物館の資料収集・展示におけるジェンダー:台湾での経験から」報告では、パブリックヒストリーを形作る重要な要素としてジェンダーが課題とされるとともに、何を収集するのか、この点でも意識的に、歴史の主体としての「大衆の歴史」や「生活」、一般の人々による「歴史を語る」こと、さらには取材のあり方そのものが収集の対象であり、そのための展示空間にも工夫を凝らすとする。その背後にはジェンダー課題が台湾先住民も含めての多元的な民族や文化との関係でとらえられるとともに、1990年代以降での「新台湾の子」としての社会のニーズとしての歴史アイデンティティ構築の要請がある。単線的な歴史の語りではなく、いかに「ひとびと」の多様性を広げていくのか、追体験も含めた歴史展示を前提とした新しい国民史の語りの姿をここに見出すとすれば、同様の論点は、リー・コー・リン「包摂の歴史―シンガポール国立博物館におけるケース・スタディ 2006-2015」報告に一層明確だ。ここでも「暮らし」に焦点をあてた、「公式の物語」と「もう一つの物語」への前景化が意識されるとともに、アーカイヴ資料としての声や動画を多用した観る側の感情を喚起する歴史展示のあり方、日本占領時代を「自転車展示」に象徴させる表現、特に労働者階級の移民女性を出身による装いの違いで表現し、アイデンティティとしての歴史をたぐりよせるための展示を試みるなど、空間構成も含め、現代史展示をめぐる多様な研究成果が駆使されている。同時に、従来の、19世紀初頭を軸とした植民地史の一部ではない新たなシンガポール史が、神話の時代も含め、12世紀から展開されるという。が、同時に2つの国立博物館による新たな歴史展示の試みは意識的な「国民の物語」の創出でもある。新たな包摂の軸に「歴史を語るうえでのジェンダーの意義は、女性に関心を払うだけではなく、立場、価値観と方法に制約された過去の歴史記録を見直し、再解釈の可能性を探ることにある」(黄)とするジェンダー射程の広がりにまずは可能性をみたい。 
 その際、後2報告が共有する、見る側が自分のものとして感じられる歴史・歴史展示という課題をどう考えるべきだろうか。この論点は歴史実践としての歴史展示がどのような位置あるのか、という問題と関わっている。
 この点でたとえば日本史の学会誌は<新自由主義時代の歴史展示>といった特集が度々組まれるなど、博物館の歴史展示や体制そのものへのバッシングへの対抗的な議論を蓄積させてきた。他方で同じく社会との関係が問われる教科書問題や歴史教科書をめぐる対抗文化の構築にあって、特に歴史の実践として歴史教育を考える際、ジェンダー射程をふまえることは、学習者を歴史の主体として育み、エンパワーメントするために必要な試みとして議論が積み重ねられている。教科書叙述にも変化の兆しはあり、1925年の普通選挙の表記は(本土と入れるべきだが)「男子普通選挙」へ、「学び舎」の中学校教科書のようなジェンダー射程に意識的な教科書も登場した。学界の発信はどうか、という点でも、「慰安婦」問題に象徴されるように、ジェンダー射程は、横山報告が指摘されたような、研究者個々人の政治性にふれる、というナーバスな側面の一方、特に歴史修正主義者との対決を迫られる主題については、歴史研究者としての職業倫理がまさる、という側面も持つ場合がある、と考える。 
 とすればジェンダーは、なぜ「日本史」の歴史展示の課題になってこなかったのか?歴史展示にとってジェンダー視点がいかに必要かつ有効か、という論点については議論されてこなかったものの、この点は改めて興味深い論点であり、歴史教科書をめぐる議論や実践それらへの蓄積と比較して論じる必要があると思う。強調しておくべきは、教科書も歴史展示もわかりやすさを求めるとともに、啓蒙的視線によって、古いジェンダー意識が入り込み、再生産する、あるいは意識的に強化することもできる強力な歴史メディアであり、歴史研究に関わる側はこの点を十分に意識すべき段階にある、という点だろう。 
 では歴史展示にジェンダー視点が欠けることで何が問題なのか。この解の一つを最後に松本報告の議論にみておきたい。
 松本直子報告「日本の博物館におけるジェンダー表現の課題と展望―歴博の考古学展示に触れつつ」は、歴博も含め、広く国内外の考古学展示のなかでの具体例に沿って、特に復元展示や復元画像の持つ問題性が極めて具体的に提起された。食事の支度をめぐる研究成果と乖離する描写、あぐらと正座との対比など、復元展示の持つ、固定的なジェンダーメッセージの危険性について、様々な角度から警鐘を鳴らす刺激的な報告だった。また量的なバランスにも言及があり、歴博展示のなかで様々な男性像がえがかれていることとは研究成果の反映である一方、画一化された女性像の提示は、今回の各パネリストが新しい歴史展示として強調していた、歴史主体としての多様性の確保という点で大いに課題を含むものだろう。議論の中でも指摘があったように、歴史修正主義者もしばしば用いるアニメキャラクターという表象レベル、市民向けの宣伝レベルの文言や文字表象に至ってもぜひ吟味いただきたいと思う。
 分かりやすさ、という一見、観る側に沿ったかのような物言いはしかし、何らかの調査を踏まえたものでない以上、社会の側の世界水準からかなり隔たった悪しきジェンダーを強化することにつながりひいては、研究の側の実証水準を消費され、変容させられる危険性を持つ。コメントの際には、「伝統」という語りの持つジェンダーブラインドの濫用事例として、世界遺産認定された熊野古道の大峰山女人禁制をあげてみた。性別による明確な差別が「伝統」の名のもとに、かつ世界的な権威付けによって後押しされながら、今日存在することの負の意味が問われるべき重要な事例であり、国立博物館の歴史展示はこうした「過去の現在」が喚起する問題群に意欲的であってほしい。歴史を表現する営み全体のなかでの、専門知としての歴史学―のなかの歴史展示という歴史実践がどうあるのか、その際、ジェンダー射程と歴史展示という課題は最も重要なテーマの一つであり、国立の歴史民俗博物館とはそうした課題を内外に示す位置にある、この点を改めて認識したシンポジウムであった。

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2017年04月11日

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター4号

例年よりも春の訪れが遅く感じられた今日この頃ですが、新年度のはじまりで皆様お忙しくお過ごしのことと存じます。「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第4号では、過日行われた第3回研究会の報告を掲載いたします。
本研究会も2年目を迎えましたが、今年度は国際研究集会の開催を予定しております。今後もこちらから随時お知らせ等お送りいたしますので、引き続きよろしくお願い申し上げます。
本記事と同内容のPDF版はこちら→日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター4号

見学会報告
第3回研究会は長野県にて開催され、初日が研究報告会、2日目が中野市・須坂市巡見、3日目には有志で須坂市の坂本家文書調査を実施いたしました。概要および報告要旨は以下の通りです。

歴博基盤共同研究「日本列島社会の歴史とジェンダー」第3回研究会
2017年3月18日(土)−3月20日(月・祝) 

◆3月18日(土) 13:00−16:50 於:長野県須坂市上高井郡旧郡役所 

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報告1 殯宮儀礼の主宰と大后−女帝の成立過程を考える−
仁藤敦史(国立歴史民俗博物館)

 昨年の8月8日にマスコミに対して公開された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」には、「これまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては,重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、1年間続きます」との発言があった。ここには古代以来の長期に行われた「殯」という、埋葬までにおこなわれる種々の葬儀儀礼についての言及がなされている。殯とは、死者の復活を願いながらも、遺体の変化を確認することで最終的な死を確認するという両義的な儀礼であった。しかし、3世紀の「魏志倭人伝」の記述では10日程度の期間であったとする葬儀が、7世紀の『隋書』倭国伝では、一般的な葬儀と区別されて、支配層は3年のモガリを行ったとあるように、長期化していることが確認される。おそらく渡来人の喪葬儀礼の導入によりモガリが整備され、長期化して「殯」と表現されるようになったと考えられる。やがて、モガリは特権的な儀礼として神聖化され、この期間中に合意形成により後継者を決定するということが一般化し、皇位継承と深い関係を有するようになった。盛大なモガリ儀礼を首尾よく終えることが政争の回避に重要な意味を持つようになったのである。
 本報告の目的は、古代における殯宮儀礼の主宰者と考えられるオオキサキ(大后)の役割を解明し、女帝即位への道筋を考えることにある。
 殯宮の儀礼については、和田萃氏が1969年に発表された「殯の基礎的考察」という論考が通説的位置を占めている。和田氏による論点は多岐に渡るが、巫女的な「中継ぎ」女帝即位に連続する「忌み籠もる女性のイメージ」を前提に、内外に二分された殯宮のあり方を提起している。すなわち、殯宮内部での儀礼と殯宮が営まれている殯庭での儀礼に二分されること、前者はおそらくは女性に限られた血縁者や女官・遊部らによる私的な奉仕儀礼であり、後者は王権内部での殯庭での公的儀礼と位置付けられている。天武の殯宮には鸕野皇后が籠もり、草壁は喪主として公的儀礼に供奉したと対比的に位置付けるように、殯の全期間に籠もる女性を強調する点が特色となっている。女帝即位との関係は皇位継承の争いを避け、これを鎮める便法とされるように、井上光貞や折口信夫以来の巫女的な「中継ぎ」女帝論を前提に論じられている。殯宮の二分法的な理解については、河原での儀礼との連続性の観点や、喪屋(殯大殿)と殯庭(誄)が門(兵衛)と垣で囲われる一体的な構造からは、成立しにくいことを指摘した。
 近年、稲田奈津子氏は、こうした通説的な和田説に対して、殯宮に籠もった皇后に先帝の天皇権力が委譲されるという、いわゆる「忌み籠もる女性イメージ」に対して疑問を提起された。本報告では、この和田説批判における「忌み籠もる女性」という論点を全面的に肯定しつつも、元キサキによる「殯宮の主宰」という論点については、女帝即位に連続する権力的な分析に依拠すれば、異なる意味付けにより継承できるとした(なお、モガリの主宰は前王の近親者が務めたと想定され、斉明死去時の中大兄のように必ずしも女性に限定されないが、その機会は多かった。当然ながら、通説のようにモガリの宮に常時籠もる必要はない)。
 主要な根拠としては、第一に大王の在位中においては、キサキとしての輔政・共治は顕著に認められないこと(たとえば、持統のキサキとしての執政実績の強調は、『漢書』『後漢書』皇后紀による潤色であり、明確な根拠とはならない)。第二に、推古没後の混乱において「葬礼畢りぬ。嗣位未だ定まらず」(舒明即位前紀推古三六年九月条)とあることからすれば、通常はモガリの終了までに皇位継承者が決定していたと推測され、実例においてもモガリの最終段階での誄による日継の奏上(嗣位の決定)がなされていたこと(持統二年十一月乙丑条)。反対に用明天皇は「諒闇に居すと雖も、勤めざるべからず」という状況のため「即位と称せず」(『伝曆』)と評されたように殯終了以前の即位は正式な即位とはされていない。第三に、『日本書紀』編者の意識として「空位は一日だに空しかるべからず」(仁徳即位前紀)という認識があるにもかかわらず、モガリ期間のみの権力行使は「称制」などとは表現されないことが指摘できる。すなわち、モガリ期間における、元キサキによる行為は、「空位」とは認識されない慣習的かつ制度的な大王代行であったことになる。少なくともモガリ終了後も即位しなかった長期の「空位」事例のみを「称制」と称している。第四に、正史において女帝の即位について立太子記事が孝謙即位を例外として見えないが、日継の誄により認定される男性のミコに対して、女帝はすでに「モガリの主催」により権力的な認定がされていることが一つの要因として考えられる(皇統譜意識において母たるミオヤとしての即位であったことが別な要因としては指摘できる)。第五に、殯期間を中心とした空位時において、元キサキによる人格的権威を前提とした「宣・告・命」とも表現される口勅が多数発出されていること。これは殯宮においては生前と同じような群臣による奉仕関係が長期に継続することが背景にある。殯期間における殯宮の主宰者は前王と権力的に一体化した大王の代理的存在であった。第六に、中国における類似な事例として、漢の呂太后は宗廟社稷を奉じる存在であることから、次の帝位を定める資格があったことが指摘されている。これは、帝位を継ぐことにより血縁にない先帝との間に父子関係が発生し、それが母子関係にも及ぶことが前提にある。
 以上のような根拠により、女帝出現の背景として、モガリの期間中に元キサキが大きな政治的役割を果たしており、それは前王の近親者としてモガリを主宰したことに求めるのが妥当と判断した。




報告2 セクシュアリティ発現の〈場〉としての遊女屋
辻浩和(川村学園女子大学文学部史学科)


報告者は、『中世の〈遊女〉生業と身分』(京都大学学術出版会、2017)において、13世紀後半頃における「遊女」の変容を論じ、芸能性の減退と売春性の前面化、都市における遊女屋の増加などを指摘した。これを受け、本報告では、13世紀後半以後、遊女と客との接触態様がどのように変化するのかについて、〈場〉としての遊女屋に着目しながら論じた。
 まず、売春性の前面化によって、「遊女」への評価基準は容色を中心とする視覚的なものに変化した。これに伴い、遊女屋の入口では遊女を視覚的に評価・値踏みし、直接交渉を行うようになっていったと考えられる。16世紀から17世紀にかけての史料では、絵画史料・文献史料ともに、遊女屋の戸の脇から身を乗り出して客の袖を捉える「遊女」の姿が描かれている。こうした交渉の姿が、遊女の典型的なイメージになっていたと考えられる。
 次に、13世紀以降の「遊女」史料では、酒宴や酌に関する記述が増加する。お酌は12世紀後半以降の私的空間拡大に伴って増加したと考えられるが、歌謡や芸能への関心低下によって、酌への関心が表に出てきたものであろう。酒宴の場では「思ひ差し」などによって特定の遊女を選ぶことが行われており、「遊女」と客との関係は、芸能における一対多数の関係から、一対一の個的な関係へと変容していることがうかがわれる。
 こうした関係の変容を受けて、「遊女」をめぐる喧嘩や殺人の史料が見えるようになってくる。さらに15世紀後半以降は、誘拐・人身売買による「遊女」の補充が行われるようになり、遊女屋は物騒な場になっていくようである。遊女屋と博奕を共に取り締まる法令がたくさん残されていることは、こうした治安上の不安から遊女屋が忌避されていく様子を示しており、奈良で遊女屋の破却が頻繁に行われていることも、おそらく秩序維持と関わるものと考えられる。従来の研究では、遊女屋の忌避と、「遊女」の特殊視とは、連動して戦国時代に起こった動きと考えられてきたが、遊女屋の忌避が13世紀後半以降見られることを踏まえれば、両者は別個の動きとして見ていく必要があると思う。
 以上の3点を指摘して、中世後期における遊女屋の変容と、近世遊女への展開を大まかに見通した。

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◆3月19日(日)
2日目は以下の通り中野市内・須坂市内の巡見を行いました。

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▼中野市立(仮称)山田家資料館
 山田庄左衛門家は近世初期からこの地に土着していた豪農で、酒造業や金貸、地主経営等で利益を上げるとともに、地主として同地で頻発する千曲川とその支流の水害対策に当たり、明治4年には千曲川瀬直し工事を完了させている。また、明治3年、信濃の世直し一揆の中では最も苛烈であったという中野騒動の際には、当時の商社人筆頭ということで屋敷の打ち壊しに遭った。現在、約1200坪の土地・江戸後期から明治に建てられた土蔵群を含む建造物・資料は中野市に寄贈され資料館として希望者に公開されている。移動のタクシーを降りた大ケヤキの位置から資料館入口である裏門までかなりの距離があり、屋敷地の大きさを実感した。この日は展示室や広大な土蔵群を見学させていただいた後、山田家文書を閲覧。閲覧資料は幕末維新期、山田家が江戸の新吉原の遊女屋経営に投資を行っていたことに関わる文書と、同じく幕末期に江戸から当時隠居の山田隼人(八代目庄左右衛門)の元に14歳で妾奉公にやってきた岩井貞子の関連資料である。「妾奉公」とは言っても、その実貞子は隼人死去後も剃髪して信濃に残り、自身の教養を活かして山田家の子女の教育にあたるとともに、地域の人々に和歌や書、裁縫を教え、山田家との繋がりも継続していたといい、その生涯には興味深いものがあった。

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山田家の鬼門に位置する大ケヤキ

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広大な屋敷地の西側の一角を囲む土蔵の白壁

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山田家文書閲覧の様子。遊女屋経営への投資に関わる文書は柿渋を塗った包装紙(写真右)や着物を包むたとう紙に再利用されたことにより残された。


▼中野陣屋県庁記念館
 近世には中野陣屋、明治初期には中野県庁が置かれていた場所で、現在はコミュニティホールやギャラリーとして活用されている。開催中であった「中野土人形 市川一生コレクション」展を見学。


▼豪商の館 田中家博物館
 田中家は穀物や煙草、酒蔵業等を営み、代々須坂藩の御用達を勤め名字帯刀を許されるとともに、幕末期には藩財政にも関わった豪商・大地主である。土蔵を改装した展示室では企画展「おんなの節句 田中本家の雛人形ときものと」が開催されており、同家の富裕さをうかがわせるずらりと並んだ雛人形や、色鮮やかな着物を見ることができた。

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その後天明期に作庭された池泉回遊式庭園をはじめとした四つの庭園や主家といった建物群を見学。廻遊式庭園は小山まで設えてある見事さで、桜も紅葉も時期外れではあったが、須坂藩主がこの庭を気に入り度々お忍びで訪ねて来ていたというのも頷けるものだった。

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回遊式庭園(大庭)

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須坂藩主がここからお忍びで訪ねてきたという「お忍びの門」


▼須坂市文書倉庫にて坂本家文書閲覧
 山田家と並ぶ豪農、坂本幸右衛門家に伝来し、現在は須坂市所蔵。北信幕領地域の政治・経済・文化・社会の実態把握が可能な文書で、かなで記された遊女の手紙が含まれている。同文書は現在も整理中であり、今回は文書が保管してある倉庫にて一部の文書を閲覧した。

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※次回研究会 2017年5月6日
国立歴史民俗博物館にて第4回研究会開催予定。
テーマ「近世の女性労働を考える」


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日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター3号

「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第3号をお届けいたします。
ご報告が遅くなりましたが、今回は2016年11月3日(木・祝)に佐倉市の西福寺で行われた「坂戸の念仏 大十夜」見学会についてご報告いたします。
本記事と同内容のPDF版はこちら→日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター3号

見学報告

西福寺 坂戸の念仏 大十夜見学会
2016年11月3日(木・祝)
於:佐倉市坂戸 西福寺〜念仏塚

◆西福寺大十夜とは
 千葉県佐倉市坂戸の西福寺は応安年間(1368−75)に良栄上人、千葉定胤によって開かれた浄土宗寺院。坂戸地区の隠居身分の女性たちで作られた念仏講に伝わる念仏踊りが「坂戸の念仏」で、「大十夜」では33年に1度、宗派に関係なく近隣の人々が西福寺からおよそ1.2キロ離れた念仏供養塚までの道のりをゆっくりと練り歩き、塚の周りで念仏踊りを披露する。大十夜は明治15年(1885)、大正9年(1920)、昭和30年(1955)、同58年と行われており、昭和55年に千葉県無形民俗文化財の指定を受けている。

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◆西福寺 大十夜タイムテーブル
 西福寺境内 9:00  開会
       9:30  念仏踊り奉納
       10:00  本堂前法要

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西福寺境内での2曲の念仏踊り「ささえだ」「朝顔」の様子


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西福寺から念仏供養塚まで行列

念仏供養塚到着 13:10 開山忌法要
        13:30 念仏踊り奉納
        14:15 式典
        14:45 餅投げ
        15:00 閉会

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小高い念仏塚。置かれているのは良栄上人座像。

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念仏塚前での扇を使った「朝顔」

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合掌で一連の動作が終わる「しもつけ」


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