2017年04月11日

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター3号

「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第3号をお届けいたします。
ご報告が遅くなりましたが、今回は2016年11月3日(木・祝)に佐倉市の西福寺で行われた「坂戸の念仏 大十夜」見学会についてご報告いたします。
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見学報告

西福寺 坂戸の念仏 大十夜見学会
2016年11月3日(木・祝)
於:佐倉市坂戸 西福寺〜念仏塚

◆西福寺大十夜とは
 千葉県佐倉市坂戸の西福寺は応安年間(1368−75)に良栄上人、千葉定胤によって開かれた浄土宗寺院。坂戸地区の隠居身分の女性たちで作られた念仏講に伝わる念仏踊りが「坂戸の念仏」で、「大十夜」では33年に1度、宗派に関係なく近隣の人々が西福寺からおよそ1.2キロ離れた念仏供養塚までの道のりをゆっくりと練り歩き、塚の周りで念仏踊りを披露する。大十夜は明治15年(1885)、大正9年(1920)、昭和30年(1955)、同58年と行われており、昭和55年に千葉県無形民俗文化財の指定を受けている。

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◆西福寺 大十夜タイムテーブル
 西福寺境内 9:00  開会
       9:30  念仏踊り奉納
       10:00  本堂前法要

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西福寺境内での2曲の念仏踊り「ささえだ」「朝顔」の様子


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西福寺から念仏供養塚まで行列

念仏供養塚到着 13:10 開山忌法要
        13:30 念仏踊り奉納
        14:15 式典
        14:45 餅投げ
        15:00 閉会

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小高い念仏塚。置かれているのは良栄上人座像。

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念仏塚前での扇を使った「朝顔」

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合掌で一連の動作が終わる「しもつけ」


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2016年11月18日

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター2号

 季節外れの暑さが続いたかと思えば急に秋めいて、ようやく木々も色付いて参りました。皆様いかがお過ごしでしょうか。「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第2号をお届けいたします。本号では、9月24日(土)、25日(日)に開催されました、第2回研究会について報告いたします。
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研究会報告
 第2回研究会は「文字・文体とジェンダー」をテーマに、2日間で4名の方からいずれもチャレンジングなご発表をいただきました。2日間の概要および発表要旨は以下の通りです。

歴博基盤共同研究「日本列島社会の歴史とジェンダー」第2回研究会
テーマ:文字・文体とジェンダー
2016年9月24日(土)−25日(日)
於:国立歴史民俗博物館 第1会議室、大会議室

◆9月24日(土) 13:00−17:00 
 初日となる24日は、三上喜孝氏、福田千鶴氏からのご報告をいただき、活発な議論が交わされました。
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報告1 古代の文字文化とジェンダー
三上喜孝(国立歴史民俗博物館)

 古代における文字とジェンダーの問題を考える際に、その点を強く意識した先行研究としてまずあげられるのは、関口裕子「平安時代の男女による文字(文体)使い分けの歴史的前提 −九世紀の文書の署名を手がかりに−」(笹山晴生先生還暦記念会編『日本律令制論集 下巻』吉川弘文館、1993年)であろう。関口裕子氏は、男=漢字(漢文)=公、女=仮名(和文)=私という、男女による文字・文体の使いわけが、具体的にどのような歴史的過程を経て十世紀に定着したのかを考察する一助として、時期的にそれに先行する8、9世紀での文字使用のあり方を、文書の署名にみられる男女観の相違を手がかりに検討した。具体的には、9世紀の土地売券にみえる男女の署名の違い(自署か、他署か、画指か)に注目したのである。とくに画指は、人差し指の関節の位置と長さを自署の代わりに示したもので、文字を解さない人間に対しておこなわれた署名方法であるといわれている。
 関口氏は、9世紀の土地売券に残されている画指のほとんどが女性によるものことを指摘する一方で、画指をしているからといってその女性が漢字を書けないとはいえないと論じた。女性の自署が不可欠でなかったのは、漢字の書き手は原則として男であるという社会意識の成立を意味し、それが後の男=公=漢字、女=私=平仮名という規範の成立につながったとしたのである。
この関口氏の見通しは、今もなお有効と考えられるものの、漢字=男手、平仮名=女手と認識されていく状況を、「文字の使用に性差別が刻印されるという世界史的にもまれな状況が見られる」と指摘している点は検討を要する。とりわけ「画指」は中国で生まれ、東アジアに広まっていった規範であり、東アジア的な規範の中で「画指」をとらえる必要があると考える。
 中国・唐代における画指については、法制史学者である仁井田陞が事例を収集し、考証している(仁井田陞『唐宋法律文書の研究』東京大学出版会、1937年)。それによると、画指の語は中国では遅くとも北魏の時代にはすでにあらわれており、唐代にもその語が用いられていた。画指は主に、売買文書や借銭文書、借粟文書など、契約にかかわる文書にみられるが、これは、さまざまな契約には自署が必要であり、それと同様に、文字の書けない人々は画指を用いたからである。画指は唐の後、宋・元の時代になっても行われた。
 画指は、東アジア各地に広まっていった。朝鮮半島では、朝鮮王朝時代に画指が行われていたことが確認されている。仁井田陞によれば、指の大きさが長方形で表され、その中に、男性の場合は「左寸」、女性の場合は「右寸」と記され、さらに関節の位置が記されたものであって、仁井田陞のいう「指形式」の画指である。
 さらに仁井田陞は、ベトナムでも画指が行われていたことを紹介している。その様式は原則として、男性は左手、女性は右手の指の関節を、点で表記するもので、仁井田のいう「点式」の画指である。このほか仁井田陞は、唐末から宋代にかけて中国北西部に存在した、西夏においても、文書に画指が利用されていた事例を紹介している。
 こうしてみると、画指は、東アジアに伝播した漢字文化と同様の広まりを見せていたことがわかる。
 さらに画指を細かく見ていくと、7世紀前半(高昌国時代)のトルファン文書には、文末に「各自署名為信」とあり、署名部分に画指が書かれ、「不解書、指節為明証」と傍書されている例がしばしば見られる。これは、自署を前提とし、「不解書」の人物が画指を自署の代わりとするという規範が存在していたことを意味する。
 だが7世紀後半(唐代)以降のトルファン文書では、やや異なった傾向が見られる。文書の文末に「画指為信」「画指為験」「画指為記」とあり、署名部分には3点式の画指が多用されるようになる。とくに「挙銭契」「挙麦契」などにおいて「挙銭人」「保人」「知見人」が画指を用いている例が多い。画指が、必ずしも「不解書」の代替としておこなわれるものではなく、当初から本人特定の手段として用いられた可能性をうかがわせる。
 このほか、裁判の訴状や訊問書、団保文書など、本人特定がことさらに重要であることが想定される文書に画指が使用されており、画指が身体性と深く関わって使用されるようになったことがわかる。
 このようにみてくると、画指は、たんに「不解書」の代替としておこなわれたものではなく、古文書の特定の様式や規範にかなり制約されておこなわれていた可能性がある。
 たとえば朝鮮半島では、朝鮮時代の古文書の中に画指が確認できるものが膨大に残っている。その一つが、土地の売買の際に作成された「土地文記」という文書である。
 崔承熙『増補版 韓国古文書研究』知識産業社、1989によれば、財主・証人・筆執は姓名と花押(手決)をするが、身分が賤民である場合には手寸(奴…左手寸)手掌(婢…掌押、掌形または右手寸)をすることになっており、財主が士大夫の家の婦人である場合は押印をした。
 そもそも両班の家で土地を売買する場合には「某宅奴某」の名義で売渡・買収する。両班は売物があっても直接売買に関係せず家奴に牌旨(牌子)を与え、形式上、売渡することを委任して、牌旨を受け取った奴は、売買契約書(文記)を作成して、牌旨と旧文記を一緒に買受人に引き渡して、売物価を引き受けるのである。したがって、土地文記の署名部分のほとんどには、名義人となった奴婢の手寸(画指)がある。これらの画指は、奴婢が文字を解するか否かにかかわらずおこなわれたのである。
 男性の画指を左手、女性の画指を右手とする規範も、中国に端を発する規範を踏襲しているものである。
 古文書にみえる「画指」は、東アジア世界において地域的・時間的に広がりを持つ規範であり、日本列島社会の固有の問題としてだけではとらえられないことに留意すべきである。このことは、漢字と仮名の関係についても、「文字の使用に性差別が刻印されるという世界史的にもまれな状況」ととらえるのではなく、少なくとも東アジアレベルで文字とジェンダーの問題を考えていかなければならないことを示している。



報告2 近世女筆学の構築に向けて
福田千鶴(九州大学)

はじめに

 本報告では、これまで報告者が進めてきた近世奥向研究を振り返り、近世女筆学の構築に向けてのささやかな提言をおこないたい。
 報告者は、平成11年度から同14年度にかけて「大名家文書の構造と機能に関する基盤的研究―津軽家文書の分析を中心に―」(文部科学省科学研究費補助金基盤研究C2)を進める過程で、大名家文書の成り立ちを解明するためには奥向史料論が必要であると考えるにいたった。そこで、平成16年度から同19年にかけて、「近世武家社会における奥向史料に関する基盤的研究」(同基盤研究C)という研究で奥向史料の所在調査をおこなった。その結果、当初に想定していた以上に奥向関係史料が伝来していることの確証を得た。これをふまえ、平成21年度〜同23年度にかけては「日本近世武家社会における奥向構造に関する基礎的研究」(同基盤研究C)を進め、奥向研究の基礎整備として「女中奉行日記」(鳥取県立博物館池田家資料)・「女中奉公人請状」(国文学研究資料館信濃松代真田家文書)を翻刻紹介し、来見田博基編「鳥取藩御女中一覧表」を公表した。ただし、これらは奥向の史料であるとはいえ、基本的には中奥の史料であり、奥で作成・授受・保管された史料の伝存は極めて限定的であり、しかもその大部分は近世後期の日記類である(1)
 また、豊後府内藩の『大奥日記』(京都大学総合博物館蔵)は、その表題から明らかに江戸の府内藩邸における奥日記であるが、奥付の男性役人によって記された男手の日記である。つまり、奥の機能に関わって作成・伝存した限られた記録のなかにあっても、女が書いた文字というのは極めて限定されていることがわかる。つまり、奥向史料とされるものの大部分は、男が書いた文字によって記録されているといわざるをえないのである。
 では、江戸時代の女は文字を書かなかったのか。その答えは否である。女手による奥の記録の数は少ないが、伝在していないわけではない。たとえば、『女儀日記』(山口県文書館毛利家文庫)がある。文久3年2月9日から明治26年3月31日まで31冊が伝来している。これは、萩城の梅御殿に居住した毛利敬親夫人妙好付の右筆だった真砂が書いた日記であり、女手で書かれた稀少な奥日記であるといえよう(2)
 また、何よりも「女筆消息」と呼ばれる一群の史料が伝来する。16世紀末以降には、女性自身が書いた書状が多く残されている。よって、女手による限られた記録史料の一方で、これら豊富な女筆消息を分析することは喫緊の研究課題として浮上することになったといえよう(3)
 以下、本報告はジェンダー史の観点からの報告にはなりえていないが、近世女筆学構築の重要性を提起することで、女筆研究とジェンダー史をつなぐ橋桁の一つにでもなればと考えている。

1.定式化された女筆手本類

 一般に、仮名文字は古代の貴族によって使用が始まり、中世には武家の女性によっても使用されるようになり、近世の「女筆手本」の出版が女子教育の教科書的役割をはたし、広く社会に普及したとされる。つまり、女筆とは、「女の文字」とされる仮名文字で書かれた筆跡ということができ、男が仮名を用いた場合も女筆の範疇に含めることができよう。
 その一方で、仮名文字で書かれた書状を「女筆消息」と呼ぶ例がある。つまり、「女筆」には「女筆」特有の書法(散らし書き・撥ね文字・文体・料紙の用い方・名前の書き方等)が備わねばならなかった。すなわち、これらの要件を備えて書かれたものを狭義の「女筆」ということができよう。
 17世紀に入り出版文化が開花するなかで、女性教訓書や女子用往来物が数多く出版されるようになる。これら女筆手本類(4)が果した役割については、教育史やジェンダー史の観点からの研究蓄積がある。小泉吉永『女筆手本解題』(日本書誌学大系80、青裳堂書店、1998年)、中野節子『考える女たち―仮名草子から「女大学」』(大空社、2007年)、天野晴子『女子消息型往来に関する研究―江戸時代における女子教育史の一環として―』(風間書房、2008年)が代表的なものであり、2009年には民衆史研究会が女筆手本を大会テーマとし、『特集・書物からみる近世女性の「知」』(『民衆史研究』79、2010年)としてまとめられ、勝又基「近世前期における仮名教訓書の執筆・出版と女性」、小泉吉永「女筆の時代と女性たち」、中野節子「民衆史研究会二〇〇九年度大会シンポジウムコメント」が載せられ、研究の進展をみた。
 そこでの議論は多岐にわたるが、本報告との関連では、17世紀後半から18世紀前半にかけて女筆手本類の出版が続出し、「女筆の時代」というべき女筆の隆盛をみ、その過程では「女らしさ」が求められ、居初津奈が「おとこことばをはふみにはかくへからず」(『女文章鑑』1688年)、春奈須磨が「女筆におほくおとこもしをかきましへたるもにくげなり」(『女用文章唐錦』1735年)と書いたように、男言葉や男文字(真名)を女筆に用いるべきではないとする考えが示され、男が書いた手本で女筆を学ぶと心まで男のようになるので、「女性は女流書家の手本を用いるべき」という主張が展開していたという点は興味深い。つまり、中世までは男女ともに用いていた女手(仮名)は、近世になって「女筆」としてのジェンダー化が始まり、その出版の過程では、女性の女手(仮名)による「女筆」によって「女らしさ」を学ぶという形が定式化されていき、女性教訓書とともに江戸時代の女たちを「女性」化する装置としての役割を担っていった。また、そのことが女筆手本類の盛衰にも大きな影響を与え、元禄頃までに真に女性らしい言葉遣いや筆跡は消滅し始め、一世紀にわたる「女筆の時代」は衰退することになったという(5)
 とはいえ、女性によって実用的な書状が書かれるようになることで、「女らしさ」として定式化した「女筆」が衰退する一方で、ある一定の身分階層・場面などでは「女筆」が用いられ続けたことも事実である。出版ブームが去ったあとも、これら定式化した女筆消息が書き続けられたことの意味を問い返していくことも、今後に残された課題だろう。

2.女性の書状研究の進展

 女筆が定式化する以前の16世紀末頃より、多くの女性の手による書状が残されており、これは生の女性の声を伝える貴重な史料群である。女性の書状を分析した研究としては、久曽神昇『近世仮名書状集』(風間書房、1994年)、鳥取近世女性史研究会編『ある若き儒者の書状 女性史の視点でよむ』(1994年)、前田詇(とし)子『近世女人の書』(淡交社、1995年)、鳥取近世女性史研究会編『ある勤番侍と妻の書状 語られる生活・家族の絆』(2006年)、妻鹿淳子『武家に嫁いだ女性の手紙 貧乏旗本の江戸暮らし』(吉川弘文館、2011年)、『図録 芳春院まつの書状―その消息にみる人物像―』(前田土佐守資料館、2012年)、『美作小林家文書伊東万喜書簡集(江戸から実家への手紙)』(清文堂出版、2013年)などの個別研究が進展している。
 そのなかで注目したいのは、近世初期の女筆消息である。女筆手本類の出版以前でありながら、女筆特有の書風・文体などの共通性をすでに備えている。これらは中世京都の伝統文化(御所風)と近世「女筆」との連続・非連続の関係性のなかで検討していかねばならない問題だが、女筆手本類が出版される以前の女手による書状について体系的に理解するための学問が、まずは必要となってきたといえよう(6)
 というのも、ルイス・フロイスの日米文化比較を読むと、日本女性が文字を書けることに驚きを示している。しかも、その文字や文章表現は芸術といってもよい高みにある。近代化の過程で仮名がいろは48文字に簡略化される以前の仮名は、決して誰でもが簡単に書いたり読めたりできる文字ではなかったという点への留意が必要だろう。
 また、管見の限りだが、それらの書状を一覧すると、時代・階層・地域によって異なる点が認められる。つまり、女筆消息は多様性を持つが、何か共通した規則に沿って書かれているとみなすべきと考える。そうでなければ、意思伝達のツールとして役立つはずがない。つまり、「女筆」をやり取りする人間関係の背後には、共通するリテラシーを育む環境があったのであり、現存する女筆消息の多様性のなかから、彼女らが生身の生活のなかで学んだ共通した法則―女筆学―を抽出し、近世を通じての女筆消息の変化の過程を明らかにしていく作業を経ることで近世女筆学が構築されれば、女筆消息の活用によるジェンダー分析もようやく進展することになっていくのではないだろうか。

おわりに

 長門萩の大名毛利秀就の妻松平みつ(結城松平秀康の次女)の書状148点は、近世前期に女性が書いた書状としては最多ではないかと思われる。折紙に仮名文字で書かれ、女性特有の文体や撥ね文字を備えている。なかには、夫である大名を叱る文章もみられ、「女らしい」文体のなかに当時の物言う女たちのたくましい姿が見え隠れしている。みつの書状をはじめとする女筆消息の解読が進み、女たちの生身の声がもっと聴けるようになれば、近世女性像も大きく変わる予感がする(7)
 しかし、これら女筆消息を読むのは簡単なことではない。また、読めたとしても、それが正しい読みなのかどうかの確証を得るだけの学問的裏付けをわれわれは持っていないのである。つまるところ、このような現状を放置するわけにはいかないから、近世女筆学の構築が必要だというのが、差し迫った正直な話である。「女筆」からジェンダーを論じるにはまだまだ遠い道のりがあり、まずはその基礎固めをする段階にある、というのが本報告の本旨である。
 なお、当日は断片的な事例の紹介にとどまったにもかかわらず、多くの方々から示唆に富むご教示を賜った。いずれも自らの今後の課題としていく所存である。末尾となるが、報告を聞いていただいた方々には衷心より御礼を申し上げたい。

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(1)福田千鶴「藩主生母の格式をめぐる意思決定の史料空間―九代藩主真田幸教生母心戒の事例を中心に―」(国文学研究資料館編『近世大名のアーカイブズ資源研究―松代藩・真田家をめぐって―』思文閣出版、2016年)では、奥向に関わっての意思決定が全て表向の史料と他家並を参照して決定した史実を明らかにし、奥向に関わる史料は即、奥向史料であるとみなす点への注意を促している。
(2)山口古文書同好会『文久三年女儀日記 御日記帳を読む』上(2003年)、下(2005年)。
(3)これらの経緯については、2012年4月12日にメトロポリタン史学大会シンポジウムで報告し、その記録は福田千鶴「奥向研究の現状と課題」(『メトロポリタン史学』9、2013年12月)として発表した。
(4)小泉吉永氏は、「女筆手本」には純然たる「手本」と実用的な消息例文集としての「用文章」があり、女筆手本・女筆用文章・女筆往来物・男筆女用手本・男筆女用文章の五類型により、当該期の出版状況を分析している。
(5)中野節子『女はいつからやさしくなくなったか 江戸の女性史』(平凡社新書、2014年)では、漢字を学びたがる女性たちが増え、儒教的合理主義のもとで「せわしい世の中」を生きる「地女」が「やさしい女」の対局に現れてくる過程を明らかにしている。
(6)女筆を解読するための入門書として、吉田豊『寺子屋式古文書 女筆入門』(柏書房、2004年)があるが、女性の名前の書き方、料紙の用い方、文章の綴られ方など、未解明の部分も多い。
(7)福田千鶴「近世初期の「女筆消息」 松平みつの書状」(福田千鶴監修『新発見!週刊日本の歴史29江戸時代2』(朝日新聞出版、2014年)。



◆9月25日(日) 9:30−12:30
 2日目の25日は、横山百合子氏、長志珠絵氏からのご報告をいただき、前日に引き続き多くの意見が交わされました。
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報告3 遊女が書くということ
横山百合子(国立歴史民俗博物館)

 文字資料は男性の手になるものが多く、近世の女性の手になる資料は、豊富とはいえない。しかし、残された史料からは、どんな場で何が書かれたのかという内容はもちろん、どのような字体、書式で書かれたのかといった形式からも多くを読み取ることができる。本報告では、遊女の書いた手紙、記録から、遊女にとって書くことがどのような意味を持ったのかを検討した。
 報告では、長崎丸山の遊女の書簡と、新吉原遊廓の遊女の書簡、「日記」を取り上げた。丸山遊女書簡は1817年来日したオランダ商館長ブロンホフ所持のものである(オランダ国立公文書館所蔵)。内容は、ブロンホフの贈り物への返礼などであるが、数字以外が、ひらがなであること、また仮名のくずしも、ほぼ一種類の漢字をくずしたものに限られることから、単純にいろは47文字を覚えて書いたものと考えられ、いわゆる女筆としてみれば拙さが目立つ。また、「医者さん」など日常の口語表現がそそのまま用いられている部分も多く、地方色のある書簡といえる。
 一方、新吉原遊廓の遊女の書簡は、報告者が検討してきた須坂市教育委員会所蔵坂本家文書に含まれる坂本家幸右衛門等の豪農に宛てたものである。いずれも修練を積んだ文字と書式で書かれており、内容は、客への勧誘が中心である。ただし、新吉原高級遊女の文字習得の水準を示すものなのか、代書屋などがかかわっているのかについては、さらに検討したい。
 次に、遊女の「日記」について検討した。素材は、狩野文庫「梅本記」(東北大学所蔵)である。本史料は、嘉永二年に新吉原遊廓で発生した遊女による放火事件の際に名主方で作成されたとみられる史料で、調書のほか、遊女が「覚帳」などの名称によって書き、名主方で「日記」と名付けて作成した写しなどからなる。この史料からは、遊女にとって文字を書くことが日常的な行為であること、下層の遊女屋の場合、リテラシーのレベルは、日常の話し言葉を47文字のかなで表現するレベルで、社会的な定型的文書や書法、文法は習得していないことがわかる。また、日記と名づけられたものは、必要から書くというより、日々の生活の中での必要な記録や強い感情などを、きわめて率直なかたちで表現するものである。
 以上の諸史料からは、幕末期の遊女たちにおける契約観念のあり方がうかがえるほか、女文字とされるかなが、音を拾うだけで文章が書けるという特徴をもっていることから、率直な内面の表出に適合的であることが注目される。文章を書くという作業は、経験の堆積を無意識のうちに対自化していく作用をもち、反芻と「記憶の内面化」(大黒俊二『声と文字』)を通して、自己形成の力を生み出すのではないか。そしてそれは、底辺かつ女性であるという二重の周縁性を帯びた遊女たちにおいて、よりプリミティブな形で現れると考えられる。
 なお、本報告で用いた史料の一部は、拙稿「資料紹介「梅本記」−嘉永二年新吉原梅本屋佐吉抱遊女付け火一件史料の紹介―」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第200集、2016年1月)で紹介しており、参照されたい。




報告4 ジェンダー射程で「国語」論を読み直す
報告者 長志珠絵(神戸大学)
要旨 猪岡萌菜

 長氏による本報告は、近代日本の「国語」にまつわる言説を辿りながら、1990年代後半から2000年代に展開された構築主義的な「国語」論研究の課題と、そこから何が見えてきたのか、ジェンダー射程で「国語」論を捉えた時に課題としてどのような議論が可能なのかを検討したものである。
 19世紀の「国語」論は、漢字文化をいかに脱却していくかという問題を大前提としながら、言語の統一は国民形成の課題であるとして理念化・規範化されており、これらの議論は現実社会における言語運営の在り方とは乖離したところで展開していた。
 しかし、音声言語主義的な言文一致の議論が想定していたのは男性ジェンダー化された「国民」像であり、目指す規範自体が男性ジェンダー化されたものであった。このような統一言語としての「国語」を実践する過程で、「国語」を担う自己と教化される側の他者、男性ジェンダー化された「国語」規範を担わない対象としての女性、という構造が浮かび上がる。さらにそのような言語共同体の周縁に位置する女性集団に対して、文体の性差による書き分けが求められていく、という構図も一方で認められる。
 こうした流れを確認した上で、ジェンダー射程から「国語」論を考えるための問題提起として、近世社会の言語をどう捉えるかがひとつの鍵となることが示された。近世後期に女筆が希薄化していくことは先行研究が指摘する通りだが、近世後期から言語共同体の均質化への希求が高まっていく大きな流れが存在していたと考えられる。漢字文化圏の中で漢字をどうするか、言語共同体をどう建設していくか、という繰り返し行われてきた議論は、漢字文化圏に普遍的な課題であり、科挙が存在せず比較的漢詩にアクセスフリーな社会であるという前提が背景に大きく作用していた可能性がある。長氏からは、こうした前提に立ち、日本の近代化以降におけるジェンダーブラインド化された言語の諸問題を、女性性に引き付けて考えていく必要性が提示された。



※次回研究会:2017年3月 長野県でのフィールドワークを合わせて実施予定
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2016年10月07日

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター1号

2016年7月1日に発行いたしました、国立歴史民俗博物館基盤共同研究「日本列島社会の歴史とジェンダー」ニューズレター第1号を掲載いたします。
本号では、2016年5月に開催された第1回研究会の様子をお伝えいたします。
今後はニューズレター発行後に当ブログにも順次アップいたしますので、よろしくお願いいたします。

日本列島社会の歴史とジェンダーニューズレター1号(PDFファイル)

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